グレイテストショーマンを観て「野蛮性」について考える。

友人に誘われてグレイテストショーマンを観てきました。

以下はネタバレを含みます。

ミュージカル仕立ての映画でした。曲が非常にパワフルでした、時代設定が19世紀なのだろうけれど、音楽は現代の重量感たっぷりでビートが効いた音楽、EBMに近く、循環コードを多用した、頭に入ってきやすくその世界に没頭しやすい仕上がりになっていて心地良いのだが、映画の話は必ずしも心地良いものではない。この映画の中で頭の中に浮かぶのは「多様性(ダイバーシティ)と人権、野蛮性と悦楽(エンターテイメント)」の4つのキーワードでした。

ミュージアムからサーカスへ

前半の中で主人公はミュージアムをつくるものの、上手くいかず娘達のアドバイスのもと、「本物」の面白いものを陳列するという方法に変更することで、経営的に大成功を収め、名前もミュージアムから「サーカス」へと変更し、独自のブランドを作り上げていく。この過程が実に興味深い。

ハイクラスの象徴としてのミュージアム

そもそも、ミュージアムの変遷をみれば、もともとはヨーロッパの貴族達の「驚異の部屋」に代表されるような珍品を収集して陳列する部屋に端を発している。さまざまな場所(多くは新大陸など)から収集された珍品コレクションを収集し、見せることがひとつのステータスとなっていた。この文化的背景が物語の少し前の時代のことであり、この物語の時代、19世紀にはそうした文化(ある種のエキゾチズムを内包した)を市民が消費するようになったということが背景にある。

当時の「人間」の定義

また、それとも関連するが、当時の欧米の白人における認識も踏まえておく必要がある。当時、彼らの中で、「人間」として認知されているのはあくまで「白人男性」であり、それ以外は安易な言葉いうならば「不十分」であったり「できそこない」であった。ここにその後、ダーウィンの「進化論」が結びついて、進化の到達地点こそ、「欧米の白人男性」であって、それ以外の人間はその進化の過程にある人であるという認識へとつながっていく。

今回の映画のお話での「市民」の一般的な認識は「欧米白人男子以外は、まともな人間じゃない」ということが当たり前であることだ。「独り身の白人女性」「白人以外の人種」「身体的、嗜好的に当時の認識からして『まとも』ではないと認知された人」など。つまり、19世紀のアメリカにみる、「人間」と「野蛮性」を改めて見つめ直すことができる映画である点が興味深い。彼が、なぜ、最初に「ミュージアム」を作ったのか。それこそが当時の時代背景を巧みに映し出しており、その後のことの展開を見る上で重要なマイルストーンになっている。

カエルの子はカエルなのか

ミュージアムをつくるということは、市民が貴族の文化を消費し、貴族に近づくための模倣という見方もあるかもしれない。物語の最初から「貴族的な階級(ハイクラス)」と「そうではない下級」の構造は描かれており、下級である主人公がハイクラスにのし上がっていく過程が描かれている。そして、最初に主人公が貴族的なものとして作り上げたものが「ミュージアム」であった。しかしながら市民が作ったミュージアムにはハイクラスが持ち得ていた「素養と教養」が欠如していた。そのためミュージアムには権威がなく、蝋人形と剥製しかいない「見世物小屋」でしかなかった。そして、権威ある「ミュージアム」として成立しない以上、彼が注力したのは「市民を魅了する」ことであった。

与えられた「本物」を消費するのではなく、フェイクであったとしてもそれを「遊び(プレイ)」として消費することで市民を楽しませることを選択したことが主人公のターニングポイントになった。しかし、それは、当時のNY市民に、彼らにとって「未開」であった人々を引き合わせる行為であり、彼らに「異質」を再確認させ、「排除」を明確に表明する人々を生み出すことにも繋がった。つまり、サーカスに出演した人々の存在は認めたとしても、決して、彼らと自分たちは同質ではない。あくまで、ある種の怖いもの見たさで観に来ているのであって、彼らと関係を深めたいわけではない。この認識はサーカスに来たからといって変わるものではない。こうした19世紀アメリカの社会的、文化的な構造のなかであっても、本人の意識の持ちようによって、世界はすこしでも見え方が変わってくるのかもしれない「私は、私である」ということは変わりなく、「私は、私である」ということを当たり前のように感じることができることにこそ価値があると感じさせてくれるのがこの映画の良い点。

それにしても、主人公をはじめとした白人たちの考え方やサーカスを作っていく過程、サーカスの運営などに関して、しばしば野蛮性や人権を無視した行動が目につくのだが、それらを現代の認識に照らし合わせて批判してもしょうがない。それらがそもそも、その時代を動かしていた「常識」であり、「思考プロセス」であり「嗜好」であったわけだから。あくまで、「昔の人達のお話」であるのでその点を踏まえてもう一度現代社会が抱える「ダイバーシティの問題」や人権について考える必要がある。しかしながら、そうした昔のお話でありながらも現代の認識とのすり合わせを上手いことしてしまう、昔と今の「文化的な差異」を見えなくしてしまったのが音楽であることは間違いない。それほど、思考を麻痺させ、強烈で、パワフルな音楽であった。そのため、観終わった後になんとも言えないモゾモゾ感が残ってしまうのは私だけだろうか。

各シーンに登場する飲み物に注目

映画の中での社会的な状況を表現する方法として飲み物とそれを入れた器に注目をしてみるとより楽しめるのではないかと思う。最初に出てくる飲み物は紅茶であり、マナーレッスンのシーンで出てくる。イギリスのハイクラスの文化の影響が見える。その他のハイクラスの場としてモエのシャンパンとバカラのグラスがでてきたり、交渉の場でショットグラスでのやり取りはこの映画の見せ場のひとつ。市民の安い酒場の酒とグラスや、錫のジョッキにつがれたビールが当時の市民文化を表現していて興味深い。にしてもまだアメリカのイメージでもある珈琲とコーラがない時代で、みんなアルコールを飲みまくっている印象がかなりあった。

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