プライドを胸に信念を貫き通す70歳のスーパースター。その名はジュリー!!

■ミュージックコラムvol.3〜歌謡曲編〜

60年代、70年代、80年代、常に日本の音楽業界の頂点を維持し続けたスターがいた。

2018年10月、グレーのスーツに蝶ネクタイをつけて、彼は報道陣の前に現れた。

悔しさをにじませながら「僕にさいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。本当に申し訳なく思ってます」と深々と頭を下げ、「お客さんは『来てんねんから、やれよ』と言うのは分かる。甘いけど、僕はお客さんを信じてる。今回はお客さんに甘えさせてもらい、僕の意地を通させてもらいました」と公演中止の理由を説明し、謝罪した。
コンサートの直前に公演を中止した彼の行動は、各メディアで取り上げられ、賛否両論を受けている。

彼の名は『沢田研二(愛称:ジュリー)』である。

*同ライブは振り替え公演を行う方向で話し合いを進めており、「来年5月から始まるツアーまでに会場を探したい」としている。

沢田研二は、1948年生まれ、現在70歳(2018年現在)。1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期にはザ・タイガースとして活躍し、「僕のマリー」でデビュー。
セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で爆発的な人気を獲得し、「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気に日本のグループ・サウンズの頂点へと躍り出た。1969年には、日本人としては初めてアメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』の表紙を飾った。
ザ・タイガース解散後、1971年11月1日、沢田研二はソロとしてデビュー。
1973年に発表した「危険なふたり」が大ヒット。65万枚を売り上げ、ソロとして初のオリコン1位を獲得し、第4回日本歌謡大賞も受賞。1975年リリースした「時の過ぎゆくままに」は最大のヒット曲となり、累計92万枚の売り上げとなる。
1977年発表の「勝手にしやがれ」は、オリコン1位を5週連続で獲得、89万枚の売り上げを記録。当時、歌いながらパナマ帽を客席に向けて投げるパフォーマンスが話題となり、その年の代表曲として第19回日本レコード大賞を受賞した。
その後、刺青の模様が施されたシースルーの上にハーケンクロイツの腕章が施されたナチスを想起させる軍服姿の衣装で「サムライ」を歌い物議を醸したこともある。ジーンズのジッパーを途中まで降ろし、ウイスキーを口にふくんで霧のように吹くというパフォーマンスで視聴者を驚かせた「カサブランカ・ダンディ」、また、マレーネ・ディートリヒをオマージュしたメイクの「OH! ギャル」、金色のカラコンとド派手な衣装など、楽曲の新鮮さだけでなくビジュアル演出の面でもこだわりを表現していた。
究極は真っ先にテクノポップのサウンドを取り入れた「TOKIO」。当時の最新のシンセサイザー音楽に合わせて、電飾がきらびやかに光り、風が吹き始めると、背負ったパラシュートが大きく広がり開く衣装は、すでにセットの域であった。

ジュリーは常に時代の先のトレンドを見せてくれた。

ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982から1991年の9年間は歴代1位の座を保つ)。ザ・タイガース、PYG時代を含めると合計1,666万枚になる。

現在のジュリーは白いあごひげをたくわえ、ふくよかな体型で貫禄のある風貌となり、若い頃の面影を感じることはないだろう。がしかし、その歌声は今も変わることがない。当時のキーもそのままに圧倒的な歌唱力でパワフルなステージを精力的に続けている。

2018年の秋、芸歴50年を超えるベテラン歌手が、時の人となっている。

60年代、70年代、80年代、常に日本の音楽業界の頂点を意識しながら黄金期を維持してきたジュリー。当時の彼を取り巻いていたさまざまな抑圧から今は解き放たれ、自分のやりたいことも自分の生き方も決して曲げることなく、自分らしく音楽と向き合っている姿は神々しささえ感じる。「あと10年はステージで歌い続けたい」と語るジュリー。

沢田研二のサウンドにぜひ触れていただきたい。錚々たるミュージシャンたちが制作サイドに名を連ね、ジュリーと共に時代をどうやって料理してやろうか!!という意気込みと当時の最も新しい音楽が詰まっている。

時が過ぎてもジュリーの歌声は決して色褪せない。

【沢田研二 iTunes】
https://itunes.apple.com/jp/artist/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E7%A0%94%E4%BA%8C/130041443

【沢田研二 オフィシャルサイト】
http://www.co-colo.com/top.html

・コラムニスト ジミー

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