映画「ボヘミアン・ラプソディ」をみて感じた違和感「アーティスト」と「パフォーマー」

第91回アカデミー賞で4賞受賞した「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。
すごくわかりやすい映画でした。だからこそ楽しめました。
実際にあったお話で、しかも多くのファンがいるからこそ、映画の細やかなところでの演出が素晴らしい作品なのかもしれないと思いました。
私は、QUEENについてはよく知らないのですが、フレディの自宅に飾られている日本由来のアートや、着物を着ていたりするところから親日家なのではと思いました。
そして、これらは実際の情報をもとにして細かく再現されているのではないかと思いました。
なぜならば、玄関の壁に金閣寺の御札が飾られているのがチラリのみえたりするのです。
金閣寺の御札をセットの中に組み込んでいったという工夫に心打たれました。
映画を見終わったあとに調べると、やはりフレディは金閣寺を訪れていたようです。

こうしたこだわりがおそらく随所に散りばめられていると思われます。
QUEEN研究家と一緒に解説付きでみたらいろいろおもしろいと思いました。
今後そういう企画があるのかもしれません。映画の副音声で説明もアリかもしれないです。

今回、話題に上げたいのは、「アーティスト」と「パフォーマー」ということです。
多くミュージシャンは自身のことを「アーティスト」という言葉で自称している傾向があると思います。
音楽家=アーティストという構図です。
しかし、映画の中で、フレディは自身のことを「パフォーマー」と言っていました。
この点がとてもひっかかった。自身で音楽の作曲、作詞をして、音楽を作っているにもかかわらず、「アーティスト」という言葉を使用しないという点に違和感があり、不思議に思った。
なぜ、フレディは「パフォーマー」という言葉を選択したのか。

調べてみると、なんとなく見えてきたのが、2つあった。一つは、ライブパフォーマンスへの評価が高く、そこから「パフォーマー」という言葉が選択されたのではないかということ。

フレディは世界中のスタジアムでライブ公演を行い、そのパフォーマンスで注目を集めた。そのスタイルはきわめて演劇的で、あるライターは、「スペクテイター」に掲載された記事で、フレディを「自身の変化自在な姿を駆使し、観客をじらし、驚かせ、最後には魅了してしまうパフォーマーだ」と述べている。
Blaikie 1996.

もう一つが、そもそも、当時ロックバンドが「アーティスト」という言葉を選択していない時代だったのではないかということ。音楽家を「アーティスト」と表象するのはもう少し時代が経ってからのことなのではないかという点。
この映画は1970年から1985年のフレディについて描かれた映画になっている。
ちょうど、この70年代はサブカルチャーが勃興した時代という味方が強い。そもそも、なぜ、「サブ」なのかという点について考えることから始めたい。

「サブカルチャー」のサブは「ハイカルチャー」における「サブ」であるという点である。音楽においての「ハイカルチャー」とはクラシック音楽のことを指している。モーツアルトとかベートーヴェンといった音楽である。こうした「ハイカルチャー」の枠組みから逸脱したサブの文化を「サブカルチャー」として分類することがある。

QUEENのメンバーの興味深い点として、彼らは大卒以上の高学歴でハイカルチャーの教養を持ち合わせた上で、サブカルチャーであるロックをしているという点がある。「生まれた頃からロックを聴かされ育てられたロックの申し子」ではなく、ハイカルチャーを含めた幅広い教養によって造成された感性と、それを活かした作詞作曲をメンバーすべてが行っているという点は興味深い。「サブカル」のなかのサブカル!?とでも言える音楽は、「ハイカルチャー」と「サブカルチャー」の融合や化学反応によって作り出されたのではないかと思う。映画のタイトルにもなった「ボヘミアン・ラプソディ」はオペラに着想を経て制作された。しかしその制作方法から音楽に至るまで決して、「オペラ」ではない。しかしながら、その音楽には「オペラ」があると多くの人は感じるだろう。まさにオペラのシミュラークルとして存在しているといってもいいのかもしれない。

まさに新たな芸術スタイルを創造させており、メンバーすべてが音楽を作ることができるという点でアーティストであると思うが、フレディは「パフォーマー」という。やはりこの点が腑に落ちない。

ドラッククィーンを想起するフレディの衣装や表現からアーティストではなく、「パフォーマー」という言葉を選択していると考えるのはあまりにも安易で確証が得られないものであり、謎は深い。

状況から判断するに、明らかに「アーティスト」であるが、「パフォーマンス」と自称する。これは、その時代の言語表象においてフレディが自称する言葉として存在していなかったのではと考えることが無難な結論なのではないかということである。

映画の終盤でのライブエイドにみられるように、QUEENの音楽は観客との呼応を含めた形で完成するものとするならばフレディはただ、自分たちの世界観を音楽を通して発信するのではなく、その場を動かしていくファシリテーターであり、すべてを導いていく「パフォーマー」であることは揺るぎない事実であるのかもしれない。

コラム:GORELAX

GORILAX
コラムニスト ふと湧きだす好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。社会学、文化人類学の視点からもアプローチしていきます。