実は時代の先をリードしていた「カードキャプターさくら」にみる愛のかたち

2018年に注目されたアニメの一つに「カードキャプターさくら クリアカード編」があると思う。
「カードキャプターさくら」は今の2,30代が子供の頃にテレビで見ていた作品ではないかと思う。そのアニメの続編である。クロウカード編、さくらカード編、クリアカード編の3つのシリーズがある。

最近、Huluでさくらカード編から順に観ていっている。クロウカード編が最初に放送されたのは1998年4月とある。つまり、20年前の作品である。その当時の文化的な感性や社会的な状況を読み取ることができて興味深い。今回はその点に絞って紹介したいと思う。物語の詳細については実際にみて楽しんでほしい。

親友の知世ちゃんの趣味についての紹介のされ方
話の中で親友の知世ちゃんは主人公の桜の戦闘コスチュームを制作し、戦闘シーンを撮影編集をコレクションにしている。このことについて話の中では「変わった趣味をもった女の子」といった位置づけてで紹介されている。

しかし、どうだろうか、20年後の2018年なら、彼女は立派なインスタグラマーであり有名インフルエンサーになっているかもしれない。戦闘シーンをネットにアップすることはしないと思われるが、デザインした服を制作して、可愛い子に着せてネットにアップしていくということは「今どきの意識高い子」になっていかもしれない。

20年前はただの変わった子の感性が、今はかなり普通、もしくは最先端をいっている子の感性として受け入れられているかもしれないことは興味深いことだと思った。話のなかで、よく「さっきのシーンを撮影しておけばよかった」という発言が知世からは見られる。20年前では、変わった、多少オタク気質な感じの子であったが、2018年では多くの人が発する当たり前の言葉であったりする。1998年当時の知世ちゃんの感性や発言はこの20年のICTの技術革新によって誰もが受け入れることができるものへと進化したと思われる。この変化を予見していたかはわからないが、こうした設定を作り上げた作者のCLAMPの感性はずば抜けている。先見の明があったのだな感じている。

ジェンダーの捉え方
桜の魔法使いでライバルの小狼(シャオラン)は男の子でありながら、男子高校生の雪兎(ゆきと)に心惹かれている。桜も雪兎のことが好きなため、なにかとぎくしゃくするのだが、「男の子が男の子」を好きになるという状況について、知世は何の違和感もなく、「小狼も雪兎さんのことがお好きみたいですね。」と発言し、そのことについて、なんの違和感もなく、桜は応対するというかなり「LGBTフレンドリー」な話が展開される。もちろん、これが少女コミックにおけるボーイズラブへ等の二次創作への転換を促すためのネタとして作者が意図的に行っていることも容易に想像できる(CLAMPは同人作家集団がたしか基だったはず)が、そこに対して何の違和感もなく、話が進められていることについて、当時、中学生でアニメをみていた自分からしてみては、よくわからないことだった。「小狼は男なのになんで男を好きになってるんだ?もしかして、小狼は実は女の子なのかもしれない?ん?よくわからない、これがゲイってやつ?でも子どもの恋愛でゲイってあるの?」という感じに違和感と疑問がふきあがっていた。かといってそのことについて周りに話すこともなければ、誰かにそのことについて聞いてみることもなかった。なんとなく、聞かないほうがいいという感じであったからなのだが。もちろん学校教育でLGBTのことを学ぶことはほぼなかった。保健の講演会で、「ゲイの人もいます」といったぐらいの知識しか知らなかった。

もしかすると、LGBTについて考えさせられたのも、この小狼のことが最初だったかもしれない。同性愛について自然に受け入れられている世界を描き出している点でも「カードキャプターさくら」は当時としては先進的な志向のなかで物語が展開されていたと言える。そして、やっと20年たってその感性が少し追いついてきたともいえる。

結局のところ、小狼が雪兎のことを惹かれていたのは強力な魔法に惹かれていたからという話で、ゲイではなかったというのが話しのオチだった。そう、結局あの世界にはゲイなんて存在しなかったんだ。と消沈するようなものだが、そもそも人を愛することって何なんだろうということを考えることになる。

この「愛」というものはいろいろあるが、「恋愛」というものもなかなか定義できないし、こうなれば「恋愛」ですということが言えないものである。ただ、私がいえるのは通常の想いとは段階が上位に位置していたり、かけがえのない相手に対して抱くものである。それは通常とは異なる感情である。そして通常を超越する力とはいわゆる「超自然的な力」なのではないか。英語でいう「supernatural power」である。そして、この言葉に親しいものとして当然「magical」もある。そう、「魔法」である。

我々はある状況において絶妙なタイミングで「魔法」を発動して「恋に落ちる」のでないか。

魔法が得意な人もいれば苦手な人ももちろんいる。なかには魔法ができない人もいるし、魔法ができていないのにこれが魔法であると勘違いしている人もいる。

こうした魔法に関するエピーソードはカードキャプターさくらの中にもみられるが、ほかの魔法についてえがかれている物語でも見て取ることができる。そして、この「魔法」を「恋愛」に置き換えても意味は通るし、より現実味を帯びるのは面白いところである。

恋愛が得意な人もいれば苦手な人ももちろんいる。なかには恋愛ができない人もいるし、恋愛ができていないのにこれが恋愛であると勘違いしている人もいる。

「恋愛」とは「魔法」の力によって生み出されるもの。だからこそ価値があるし、多くの人が魅了される特別な存在なのではないかと。別にここで言っている「魔法」とはモノを動かしたり、空を飛んだり、ヴォルデモートを殺すようなものではない。「心を突き動かすなにか」である。

「心を突き動かすなにか」は異性だけにしか反応しないのか。もちろん、そんなことはない。
「魔法」は誰にでも、どんなものにでも使えることがあたりまえであるように、
「恋愛」も同様に誰にでも「心を突き動かすなにか」を発動させることができるのはあたりまえのことである。

カードキャプターさくらというアニメは「魔法」について書かれているアニメであるが、そこで起こるエピソードは「恋愛」をはじめ、さまざまな「愛」のあり様についてえがかれている。視聴される際はぜひその点についても注目して観ていただきたい。

GORILAX
コラムニスト ふと湧きだす好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。社会学、文化人類学の視点からもアプローチしていきます。