「100冊 本を読みました!」的な意識高い系の発言がまったくいただけない件について

数年前まではよく意識高い系と言われる「異業種交流会」というものに参加してくそったれな人脈開拓に精をだしていた時期がありました。

そこではいろいろな学びがあり、今の行動基準を作り上げる上で役に立ちました。
しかしながら、こうした「異業種交流会」が良いということを言っているわけではありません。
参加するかしないかは個人で決めればいいと思います。そこにどのような学びや気付きを持って帰るかを考えておかないと浪費して終わってしまうのは確かです。お金もかかります。

こうした「異業種交流会」でよくネタになる話題といえば「本」です。
みんな本が好きなんですよ。本を読むということが好きなんです。
でも私はいささか不思議に思うことがあります。「そもそも本当に彼らは本を読んでいるのか」という点と、その「読書の質」についてです。

「そもそも本当に彼らは本を読んでいるのか」という点ですが、流行る講演会、人の入りが良い講演会って本を書いた人の講演会だったりします。そして、そうした講演会は一応、本を書いている人の講演会ということで、参加費がそれなりに高かったりします。私は以前、参加費10,000円の講演会に参加したことがあります。その講演者は数冊の本を出している人だったので、その人の出している本をすべて読んで講演会に参加しました。

講演会の内容はびっくり度肝を抜きました。なんと本に書かれたことわかりやすいパワポでまとめて発表するようなものだったのです。
ちなみに質問タイムはなし。その後の交流会は別料金でしたが、基本的にその講演者と話すことができるのは数分、基本的には割り当てられたテーブルの人と異業種交流をしてくださいというものでした。

いやいや、あなたの書いた本3冊を買っても1万円もしないですよ。それを読んだ時間もせいぜい数時間です。
それをただパワポで発表しただけ、それを聞くだけで1万も取るなんて本当に酷いと思ったわけです。
私はそれが許せなかったのですが、周りの人はものすごく満足をしているんですね。
本をもっている人もいるようだけど、満足しているようです。
ここにいる人たちは本を事前に読んだのか?それとも本を読めない人用のイベントで読めない人でわかるように話すための講演会だったのかと思いました。とにかく、その場にいる人と自分との満足度のギャップに驚きました。

もう一つが「読書の質」について。別の機会に「異業種交流」界隈の人とお話をする機会がありました。その人は教育業界で働いている人でそれなりに勉強もされているような方でした。その人が「本を100冊読んで色々なことを勉強しているんです。2年で達成できました。」と話してくれました。「それはすごいことですね、ちなみにどんな本を読んでいるんですか。」と質問したところ、Amazonで1年もすれば1円で中古品として売られているようなものばかりでした。

以上の2つの例から3パターンの人がいることがおわかりいただけるだろうか。
「本が読めない人」「本は読んだが中身は理解してない人」「とにかく多くの本を読むことに価値をおく人」

「本を読めない人」これが意外と多いです。そしてこういう人に限って「勉強」という言葉に弱いです。
「学歴なんて関係ない。これから本を読んで勉強すれば、周りの人を追い抜いて自分はより質の高い生活を営む人間になれる」と考えている人が多かったりします。
いわゆる一発逆転です。
私個人の意見としては十年以上も勉強してきた人を差し置いて社会人になって教養系の勉強で一発逆転をするという考えは不快でしかないです。

もちろん、本を読んで勉強すれば知識も増えますし、思考の幅は豊かになると思います。しかしながらそれは「本を読むことができれば」という条件がついています。
そもそも「本を読むことができない」人が一人で本を読もうとしても本を読むことはできない可能性が高いと思います。
なぜならば、「本の読み方」について知らないからです。「本の読み方」を知らずに本を読むとどうなるか。
それは「音読」や心のなかで読む「音読」になってしまうわけです。文字をさらうだけです。
そう、本は文字で書かれているので文字を読むことができれば読むことはできます。しかしながら、書かれていることを理解するということは別のことです。これが「本は読んだが中身は理解してない人」です。

実はこの、「本の読み方」というのは小中高生ではあまり教えられてきていないものであると思います。だから多くの人が「本の読み方」つまりは「本の内容を理解する読み方」を知らないのは仕方がないことだったりします。

ではどこで「本の読み方」を学ぶことができるのか。
多くの場所があると思いますが、私は大学で学びました。「教養」や「リベラルアーツ」を専攻にもつ学部や人文社会科学の論文の批評などを行うゼミなどで「本の読み方」を学びます。言い換えるならば、大学に行けば「本の読み方」を学ぶことができるというわけでもないのです。

では、大学以外では学ぶことができないのかということですが、積読サークルや文献を読む輪読サークルが都市部ではあるようなので、そうしたところに参加すると学ぶことができるのかもしれません。
その際に注意が必要なのは、本を読むと称して新々宗教に勧誘する団体もありますし、何らかのネットワークビジネスと関連した勉強会というのも多くあります。参加する際は事前にネット等で情報収集をすることをおすすめします。

「本の読み方」を身につけるということは実は敷居が高いことだと思います。しかも厄介なのが、「本を音読」できるということを「本を読める」と勘違いしている人が多いということです。「本を読む」ということは「批判的に読む」ということです。ここで言う「批判的」というのはダメ出しをするという意味ではありません。英語のcriticalのことを指します。「クリティカル シンキング」という言葉で知っている人もいるかもしれません。ではどういった読み方なのかというと、論理整合性がしっかりしているかどうかを整理しながら読むということです。
「いつ、どこで、なにが、どうした」といったことに注目して何が書かれているのか。主語は何で、何を語っているのか。この主張は著者の意見なのか、参照や引用なのか。その論に整合性はあるのか、論拠があり実証的な主張なのか。
主張の根拠となる資料の分析は適切かどうかなどを整理して読んでいきます。

では、どうしたら、内容を理解していると言えるか。これは簡単でかつ、実践することがとっても難しいことです。
「そこに書かれていることを自分の言葉で言い換えること」です。いわゆる要約にちかいですが、要約は章ごとにおこなったりします。ここでの自分の言葉で言い換えていくのは、節や、一文ごとに行っていくことを指しています。
例えば、最初のこの一文は何を言っているのかということを自分の言葉で言い換えてみます。最初は思うようにできません。単語思い浮かばなかったり、文章表現ができないからです。そのため気がつくとただその一文を読んでいるという状況になったりします。つまり、自分の言葉で言い換えることができないわけです。
自分の言葉で言い換えることができないということは、つまるところ、ちゃんとその文を理解していないということになります。そこには絶対的な大きな壁が生じています。この巨大な壁があることは自分ひとりで本を読み進めても発見することができます。しかし、その壁の超え方はわかりません。壁の超え方は「壁を超える人」を見なければなかなか会得することができません。書かれている文を自分の言葉で言い換えていくことはちょっとしたコツと経験の蓄積が必要です。そのため、できる人からどの様に言い換えているのかということを学び取ることが必要です。つまり複数でゼミ形式の様に学んでいかなければ効率よく「本の読み方」を身につけることができないということです。

「本の読み方」について触れることで「本が読めない人」「本は読んだが中身は理解してない人」の状況についてわかってきたかと思います。こうした人の何が問題なのかというと、一番の問題は「誤読」や「勘違い」引き起こすということです。的はずれな批判をしている人を見たことはありませんか?彼らの多くは「本が読めない人」「本は読んだが中身は理解してない人」です。誤読や勘違いによって的外れな批判を生成します。また、論理根拠のあいまないなものを信用しがちな傾向にあります。そのためよく騙されます。騙されたとしても騙されたことに気が付かない人もいます。こうした人と付き合う場合は注意が必要です。私はあまり深く関わりたくないです。

次に「とにかく多くの本を読むことに価値をおく人」について触れます。これは簡単です。ある友人が語っていた言葉に集約されています。

「『塵も積もれば山となる』という言葉があるじゃないですか、よく考えてください、塵はゴミですよ。ゴミが集まったところでそれは山になるかもしれないけど、ゴミ山ですから。金が積もっていくとはわけが違うんですよ。積もっていくなら価値のあるものを積み上げるに越したことはないでしょ。」

これは本にも言えることなんです。以前、アマゾンの年間ランキングを年ごとに見ていったことがあります。
その際に気がついたのですが、1年前のランキングにノミネートしている本の大半は1円〜数百円で中古で売られていたんです。これには驚きました。要は、人気の本の多くは1年後にはほぼゴミのような価値しか無いと言えるかもしれないのです。そして、それ以上に驚きなのは、スティーブン・R・コヴィー 『7つの習慣』はほぼ毎年ノミネートしていたということと、中古の価格も安定していて低価格ではなかったということです。これは興味深い発見でした。

村上春樹『ノルウェイの森』にでてくる主人公の先輩の永沢は「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」と言っています。まさにそのとおりで「古典」を読まなければ実は意味がない。もちろん、「古典」とともに新刊にも目を通すことは必要ではあるけれど「良書」と呼ばれるものは基本的に「古典」を参照しているものが多いので、「良書」を理解しようとすれば、「古典」を当たるほかなかったりします。

ただ、この「古典」というやつはなかなか難しい。ちなみにここで言っている「古典」とは「竹取物語」や「平家物語」などの日本古典文学作品を指しているわけではない。マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』といった社会学の古典やレヴィ=ストロース『野生の思考』や小林秀雄といった現代思想の古典や 西田幾多郎『善の研究」やフーコーなどの哲学の本などのことを指している。
こうした本は一人で読み進めていくのはかなりしんどかったりする、だからこそ仲間を巻き込んで輪読することが必要になる。またそうした文献を見つけてくるにしても経験者の意見は重要になってくる。つまり、「古典」を読み進めていく上でもゼミのような形式で複数で本を読み進めていくということが重要になってくるわけだ。

せっかく、「本を読むこと」ができてもそれがゴミを積み上げるために読むのでは、意味をあまりなさない。金言が散りばめられ言葉から知識と思想を着実に積み上げることができるのはおそらく「本を読むこと」である。そのための方法は一朝一夕で身につけることはできない。普通の人がアフター5に趣味で身につけていくこともほぼ難しいのではないかと思う。なぜならば、個人で学ぶ環境を整備して身につけることがかなり困難であるからだ。
ほぼ毎日のように数時間、十数時間かけてじっくりと本を読み込んでいくことができなければなかなか身につけることができない。

しかしその技術を習得することができれば、情報の取り扱いの技術は向上するし、思考も無限大に広がっていく。
なによりも「生き方」が異なってくる。

「大学に行っても社会の役に立たない。特に人文社会科学は。」と言われることが多いが、実は「本を読むこと」の技術を習得することができるのが人文社会科学の特質の一つであると思う。つまり、今まで積み上げられた叡智というビッグデータにアクセスし、それを理解し活用するためには「本を読むことができる」ということが重要になってくるかもしれない。なぜなら我々はまだテレパシーなどで脳に直接的に概念や思想をインストールすることができないでいるわけなのだから。

 

コラム:GORILAX
大学院卒 学術修士。ふと湧き出す好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。

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