SNSの「みんなで○○してきました!」がどうしても気に入らないと思っていた時期がありました。

「みんなで花火行ってきましたー!」や「みんなで旅行行ってきました!」といった類の写真や動画がSNSにアップされるたびに、あぁ。いいなぁと思い、憧れる。
充実した休日を過ごしたんだな。羨ましいなと思う。しかしながら、一旦、自分がそうした「みんなで」みたいな集団でなにかするということを想像すると、とってもめんどくさく感じるし、行きたくないなと思う。
結局のところ、そうしたことを楽しむ性分ではないんだと言うことになる。少人数で遊ぶということでしか楽しみを得ることができないわけだ。そういった、自分の本質的な欲望とSNS上で繰り広げられる「これぞ楽しんで生きている」というもののギャップに苦しんだり、嫌な思いをすることって以前はよくあったし、そのギャップを埋めるかのように、そうした「みんなで○○しました〜!」的なイベントに参加したりもしたが、終わった後に、「あー楽しかった」という素直な感情で終えることができず、「たいして面白くないや。精神的にも身体的にも疲れてあんましいい思い出ないな」ということばかりがつづいた。

どうして、そうした結末になるのかというと、多くの場合、自分が嫌いな人、あまり一緒にいたくない人とも長時間強制的に時間を共有しないといけないことがとてつもなくしんどいのだということに尽きるのかもしれない。つまり、「あーこの人とは距離をおきたいな」と思っていてもその場から離脱できないわけだ。あいのりの車で向かう時はなおさらそうなる。とにかく拘束されてしまうのだ。いわゆる、最初から最後まで団体行動を強要されてしまうわけだ。これがしんどい。そんなことをするぐらいなら参加しなければ良かったと思ってしまう。学校の教育旅行ではないにどうして、大人になってまで、ベタベタと集団行動を取らなければならないのかと不満が募るわけだ。

様々な人と簡単につながることができる現代社会は、ある意味便利だが、「繋がりたくない人」とどの様に関係を作っていけばよいかについて頭を悩ませる社会でもあると思う。「繋がりたくない人を即ブロックすれば良い」というわけでない。その繋がりたくない人の友達が自分と仲のよい人であったりするとなかなかめんどくさい。一昔前ではそうした人間関係については知らない、もしくは知らないふりをすることが簡単だったが、いまはSNSをとおして複雑な関係性が可視化されている点が厄介な状況を引き起こしているともいえる。要はいろいろな情報が入ってきて、その情報を反映させた形で対応方法を考えなければならないことがめんどくさいのだ。

でもね、ぼくは最近思うことがあるのだけれど。SNSにアップされるものと自分をつなげて考える必要は無いんじゃないかということ。

SNSにアップされたものを、自分ごとして照らし合わせたり、比較したり、関係づけて見るのは必ずしも良い結果は生まないんじゃないかということ。自分の当事者性から、SNSにアップされたものを見て得た感情はなかなかしんどい結果をもたらすことが多い。たかが、他人のSNSの記事をなぜ、自分ごとのことと関連付けて考えなければならないのか。

べつに関連付けて考える必要なんてないと思っている。

SNSはある種の大喜利や川柳コンペみたいなものが形をかえて画像や動画で表現されていると思うこと。自分の文脈から切り離して見つめることができた時、SNSの楽しみかたが少しわかった気がした。SNSには様々な人の感情が渦巻いている。しかし、それを自分と接続させて考える必要は無いのだ。ただ、そこに流れてくるネタを眺めて、うまそうだと思えば手にとって堪能すればいいだけのこと。回転寿司と同じ。多くの寿司はスルーされる。好きな寿司を好きなだけ食べて満足するように、SNSも自分の欲求に正直に、周りに振り回されることなく楽しんで行こうと思う。

 

コラムニスト GORILAX
関西の国立大学大学院博士前期課程修了。”異文化交流ってなんやねん”といった感じの研究をしていたとのこと。現在は会社員の傍ら、ジムトレーニングに励み、肉体改造を頑張っているが、お金を手にするとすぐどこかに旅へ行ってしまう。

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