学歴フィルター展開!?学歴はあなたが所属する社会によって作られた心の壁であり、時として武器になるのだろうか。

高卒は高卒だと思っていた。

「学歴」といえば、「高学歴卒」、「大卒」、「高卒」といったもので、とりわけ、就職、転職においてしばしば話のネタになることがあると思う。「学歴フィルター」といったテーマもあり、学歴による選別や差別があるという言説はよく目にする。こうした際に出てくるカテゴリは「高卒」、「大卒」、「国公立大卒」、「一流大卒」、「MARCH大卒」といったものでの大卒をより細かくカテゴライズしてヒエラルキーの構造について話されるものを私はよく目にしていた。

そうした際に「高卒」は細分化されず、「高卒」として扱われることが多い。どういった高校を卒業したのか、進学校や工業高校、商業高校ということはたいして議論されない。「学歴」という点に関して言えば、高卒は低学歴として位置づけられる傾向がある。そしてしばしば「高卒と大卒ではどちらが就職に有利であるか」といった問いや、「高卒でも仕事ができる人はいる」「高卒でも成功できる人はいる」といった文面をみることはあるが、具体的にどんな種類の高校であるのかということは重視されていないように思えた。

私は、自分以外はすべて高卒の人である部署で働いているが、「学歴」のことで大学のことが話題に出ることはほぼなかったし、そもそも、彼らは「学歴」というものに関してさほど興味もないし、特に学歴ヒエラルキーのようなものについては気にしていないと思っていた。高卒は高卒であって、それ以上でもそれ以外でもないというものだと思っていた。だが、それは違うのだということがその後わかる。

公立の工業高校がトップでその後が商業高校で…

今年、入社した新卒の人で、研修の成績が良くなく補修が必要であるという相談が総務部からあった。このようなことは前代未聞で部長や課長は驚いていた。課長は部長に「あいつ、そんなに勉強できない奴でしたっけ?」と聞くと、部長は、「よくはわからないけど、高校がA高だし、総合学科だから勉強できないんだろう。」と言い、課長は「え、それはバカ高でしょ。そんな奴採用してるんですか。」という話をしていたのだ。その後、どの高校が優秀であるかとか、世代によって、高校のランキングは変わっていて、自分たちの世代のときは偏差値が低かった高校が最近は難関校になっていたりするという話で盛り上がった。地域的に高校は公立の方が私立より上であるという認識があるが、最近は私立の人気が圧倒し始めているという話題や、工業高校に優位性があるという話題は私には新鮮なものだった。高卒は高卒であって、学歴としてそこまで分類してランキングするものではないと私は思っていたからだ。つまり、私個人の考えとして高卒というのは大卒につながる過程に過ぎず。そこまで重視していなかったのだ。しかし、それは私個人の視点にしかすぎず、最終学歴が高卒の人たちにとって、卒業した高校がどこかということはとても重要なことであり、彼らが使用する学歴ヒエラルキーを構成する上で重要なものであることを知る。ちなみに課長と部長は公立の工業高校であり「自分たちは上位の学歴である」という認識が先程のやり取りには大いに影響しているとは思う。自己の優位性の一つとして、高学歴である公立の工業高校に出ているということがあるということだ。

普通科は役に立たない高校である

私が入社してすぐに、他部署の60代の現役現場作業員に「君はどこの学校を出ているんだい」と話しかけられたことがある。もちろん最終学歴を聞いていると思い、大学院名を答えるのだが、卒業した高校はどこかを聞いていると言われる。出身高校を答えると何科なのかと聞かれる。そこで普通科であると伝えると「なんだ、工業高校じゃないし、工業科でもないのか、普通科とか役に立たないところを出てるんだな。」と言われた。自分より学歴が下であると思っていた高卒の人にまさか、おおっぴらに学歴が悪いと言われたことは今までなかったので、最初言っている意味がわからなかったし、その背景を知る由もなかった。

大学に進学させることに悩む工業高卒の親

高卒の人のみで構成される社会空間において、大卒と高卒を比較する言説は今まであまり耳にしなかった。そもそも大卒の人と一緒に仕事をしたことがないので、リアリティに乏しく比較の対象にすら挙がってこないのだと思う。彼らにとって、大卒の人が存在していることはわかっているが、彼らの職場で大卒と実際に仕事をするのは他社との交渉が生じる課長クラスになってからである。そして、課長クラスになると、学歴よりも職歴が重視される傾向にあるため学歴をテーマとした話はなかなか出てこない。そもそも、大学や大卒が得る利益という点についても興味をさほど感じていない。あるとすれば、子どもが高校受験をする時だ。実際に私は子どもの進路について大学まで行かせるべきなのかについて複数の人に相談された。彼ら、工業高校卒の父親は大学進学を子どもに推奨すべきかどうかで葛藤したりするようだ。なぜ、学びたい、進学したいと思う子の想いを素直に受け止めず、「就職に有利」と信じている工業高校や商業高校へ進学させようとするのか。理由を聞いてみると、そこには自分の成功体験があるからなのは言うまでもない。加えて、彼らの中高生の同期で大卒進学をした人が就職に苦労したという事実があるからだ。今の中高生の親世代は就職氷河期を経験したロストジェネレーション世代が多い。だからこそ、手に職を着け、比較的確実に就職することができた工業高校卒生は入社した企業がたまたま「当たり」だったのもあり安定した職につくことができた。一方で、そうはいかず、就職に苦労したり失敗した大卒の人を多く見ているからこそ、大学進学について消極的であったり、懐疑的になったりするようだ。

「絶対的な学歴」と「相対的な学歴」

私が想定していた「学歴」とは絶対的な尺度がベースになった「学歴」のイメージだ。全体の中で、中卒、高卒、大卒、大学院卒といった大きな組分けがベースとなった学歴のカテゴライズである。しかし、そうではない「学歴」が存在しているのだと思う。それは相対的な尺度であり、自分の学歴を基準としている。自分の学歴は中位、もしくは上位程度に位置すると定義した上で、社会資本が類似したクラスの人々により再編成されている傾向がある。それは、彼らの尺度で作り、彼らの立ち位置から相手を判断するものであるから比較的優位に自分を位置づける傾向がある。主観的な側面から構成しているといってもいい。彼らをとりまく社会空間での学歴における類似点や同質性が学歴の基準値を規定し、構造を定義しているのでより関心がある点、例えば、高卒の人にとって卒業した高校や学科が注目すべき重要点のため、そこがより具体的に分類される。一方で、関心が薄い点、例えば高卒の人にとって大卒はそもそもよくわからないものなので除外して考えるといったことが起こる。だから彼らにとって工業高校は学歴のトップで、普通科の人は枠外のものになる。大卒の人を前提に語られる就活のニュースにおいて、しばしば高卒の就職が別のこととして扱われるように、彼ら、高卒の人にとっての価値基準の中では普通科進学高校は役に立たない、金にならない低価値な学歴としてみてしまうこともあるようだ。これは興味深い視点だと感じる。

そして、これは高卒の人だけに限らないと思う。これはあくまで「高卒の人の場合のもの」を私が顕著に読み取っただけである。例えば、A県においてのA県民の思い描く学歴ランキングは地元のA県にある国立のA大が過大に評価されてるといった具合に、彼らをとりまく社会空間が主観的に学歴を規定しているということはどのクラスにおいても見られることなのかもしれない。

学歴に縛られることなく就職・転職する

絶対的な学歴の序列やランキングというものはある。しかしそれが社会の中で反映されているかといえば、必ずしもそうではない。我々が働く場にある社会空間は想像以上に狭くて閉鎖的な場合があり、それぞれが独自の価値体系を構築していることがある。そしてそれがその職場や業界の「当たり前」をつくりだし社会の安定を促進しているのではないかと思う。もちろん逆に、その「当たり前」によって嫌な気持ちになったり、迫害されることも少なくはない。しかし、だからといってそれは絶望的なものではない。その社会空間における「当たり前」は他の別の社会空間においては「非常識」である可能性もある。これは「学歴」の話に限ったものではないだろう。今いる社会空間での自分の置かれている場所があまり満足がいかないもので、どうにも変えることができないのであれば、思い切って自分の価値を見出してくれる社会空間に移動してみることもいいのかもしれない。おそらくそれが「良い転職」につながるのではないかと思う。

GORILAX
コラムニスト ふと湧きだす好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。社会学、文化人類学の視点からもアプローチしていきます。