新海誠監督作品「すずめの戸締まり」を観に行ってきました。大変興味深い作品だと思い、今回はそのことについて書いていきたいと思う。
「すずめの戸締まり」は「うずめの戸締まり」
主人公は岩戸鈴芽(すずめ)という高校二年生の女の子だ。「すずめの戸締まり」の「すずめ」とは鈴芽を指していると考えられるが、なぜ、ひらがなで「すずめ」なのだろうか。ここにこの作品を読み解くヒントがあると思う。「この作品を、作品たらしめているものは日本神話である」と私は思う。つまり「天岩戸神話」をモチーフにした作品である。
天岩戸神話 https://amanoiwato-jinja.jp/publics/index/8/
天岩戸神話で天照大神が天岩戸から出るきっかけを作ったのが、天鈿女命(アメノウズメノミコト)である。天岩戸神話は天照大神が天岩戸からでるきっかけをつくった「うずめ」の話であるといえる。鈴芽の名字は「岩戸」であり天岩戸を表しているし、天鈿女命は踊りによって天岩戸を開けた。踊りには鈴を持っていたことをイメージさせかつ、「うずめ」に近い名前として「鈴芽(すずめ)」が採用されたのではないかと思われる。天岩戸神社がある宮崎県に鈴芽が住んでいるのも決して偶然ではなくよく考えられた設定。この話は天岩戸神話と関係があるということを観ている人に知らせる記号として働いている。
宗像草太は素戔嗚命(スサノオノミコト)
宮崎の高校二年生の鈴芽はある大学生と出会う。彼の名前は「宗像草太」という。これもまた象徴的な名前であると思う。宗像といえば宗像三女神であり、世界遺産にもなっている「神宿る島 宗像 沖ノ島と関連遺産群」でも有名だ。宗像三女神は天照と素戔男の誓(うけい)の結果から生まれたという。つまり、宗像というのはスサノオノミコトとの関係を示している。それを補強するのが「草太」という名前である。スサノオノミコトで草といえば、草薙の剣である。もちろんスサノオノミコトは天岩戸神話に登場する。つまり、アメノウズメノミコトとスサノオノミコトの話であるということが名前から理解できるのではないかと思う。
なぜ「戸を開く」のではなく、「戸を締める」のか。
実はこれこそが、この作品の面白いところであると思う。この話は天岩戸神話をモチーフにしている。簡単にいうと「戸を開く」ための話をモチーフにしている。しかし、作品は「戸を締める」わけだ。おそらく、天岩戸神話の神話的構造を逆にして神話的構造を再構築することでストーリーを形成したのではないかと思われる。考え方としてレヴィストロースの神話論理を参照してほしい。つまり、天岩戸神話の構造を保ちながらも話の中身は真逆のことをすることでストーリー展開をする。つまりこの作品は天岩戸神話をネガ的なものとして話を展開する。そのため開くのではなく、逆の締めるという方法を取る。これは神話的構造に則って作品を展開するというルール上では何ら不自然なことではない。むしろ、神話的構造を取ることでこの作品の「神聖性」や「尊いと思う心性」ミルチャ・エリアーデのいう「ヒエロファニー」を作り出していく上で効果的な手法であると思う。そして、この作品はその神話的構造のなかでなにかと取りあげることが難しい「震災のこと」取り上げている。「震災のこと」を「物語」ではなく、「神話的」な話の中で展開することで、ある種のリアリティと関係性の捉え方を模索した作品であると思う。
神話的であるからこそ循環的で、円を描いたような話になっている
神話として循環的な円を描くストーリーである点についても注目してもよいのではないかと思う。主人公の叔母の名前は「岩戸環」である。まさに、この話が神話的で循環する話であるということを示すメッセージが込められているように思えた。もちろん、話もかなり循環的な話である。鈴芽の幼少期と現在が常世でつながることでこの話は循環的で無限ループの話になっている。神話的トリックスターであるダイジンは要石から自由の身になるが、最後は要石に戻る。ダイジンの存在も循環的で無限であり、神聖性を持っている。ダイジンとサダイジンは右大臣、左大臣でもあるし、「大神」ではないかと思う。遠い昔に、要石になった人がいた。おそらく、ダイジンは穢れなき子ども(たぶん女の子)なので白い猫、サダイジンはその子の親(大人なので穢を知っている。つまり性行為をしたことがある、子どもがいるので当たり前のことだけれど。)なので黒い猫の姿をしており、陰陽を表しているとみるのが妥当であると思う。またダイジンとサダイジンの関係性や仕草からしても親子であるということを察することはできるのではないかと思う。
「ダイジンが最後に要石にまたなってしまうのはとても可愛そうだ」という感想を持つ人も少なくはないようだ。しかし、この作品の物語は神話的であるので、ダイジンは要石になる。神話的構造上、ダイジンが要石に戻らなければ神話として成立しなくなる。つまり、「神話的構造のなかでものをごとを捉え直す」という試みが立ちゆかなくなる。よってダイジンは要石になる。もし、これが普通の物語として構成された作品であるなら、ダイジンではなない、何者かが要石になるということも十分ありえる。しかし、神話的構造のなかではダイジンが要石になるしかない。
神話として「すずめの戸締まり」と震災
「神話なのだからダイジンは要石に戻ってしまうのは仕方のないことだ。誰のせいでもない」神話であれば、そこに原因と結果という因果関係を放棄して話を展開することが可能になる。誰かのせいでダイジンは要石になったわけでもないし、また要石に戻ったわけでもない。神話的構造上、ダイジンは要石になるわけである。
草太はダイジンによって椅子に変えられ、要石になってしまう。ではなぜ草太は要石にならなければならなかったのか。物語として普通に因果関係を突き詰めると、鈴芽が要石を引っこ抜き、ダイジンを解放してしまったことが原因であり、その結果として草太は要石になった。普通の物語であればこの点に対しての葛藤が話のメインになったりするわけであるが、草太はそのことについて否定をするし、話の展開もあまりそちら側へは向かわない。むしろ、要石になってしまった原因というものは放棄し、現実の状況に対して、どう動くかということに焦点がおかれているように思える。
世の中には「原因と結果」という因果関係を問い詰めることが難しい、むしろ不毛であるということがいくつもある。「なぜこんなことになってしまったのか」ということを考えてもしかたがなく、「現実のなかでただ生きていくしかない」という状況は意外とある。「どうしてこんなことになってしまったのか」説明のつかないことに対して、人は様々な原因を想像したり、創造したりする。それは科学的なものであったり、非科学的なもの、呪術的や超自然的なものであったり様々だ。よって、ちょうどよい原因を当てはめることは容易にできる。普通の物語であればそれこそ様々な原因を作り出し、話を展開することができる。しかし、我々が生きる現実は容易であったり、安易な原因をあてがえばそれで解決するというわけにもいかない。現実はどのような原因であったのかを解釈したところで動き出さないことも多々ある。
「すずめの戸締まり」という作品では様々なことが起こる。そして人と出会う。そしてそれは神話的構造のなかで展開されてく。ストーリーは循環し、日常から非日常へそして日常へと還っていく。神話的構造が支配し回り続けるストーリーの中で「原因」は大した意味をもたない。この前提をもとに「震災」というテーマをもってきたということは興味深い点である。「震災をどう捉えていけばよいのか」を考えるために、神話的ストーリーのなかで「原因」を考えたり想像するのではなく、「現実」や「いま起こっていること」からもう一度捉え直してみてはどうだろうかというメッセージを私は受け取った。ここにこの作品の強さと巧みなストーリー構成の素晴らしさをみたと思う。
参照文献
クロード・レヴィ=ストロース(2006)『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳,みすず書房.
ミルチャ・エリアーデ(1969)『聖と俗―宗教的なるものの本質について』風間敏夫 訳,法政大学出版局.