就職活動とフェティシズム

日本の就職活動は、時として一種の通過儀礼のような面持ちがあります。履歴書が手書きで、その筆跡が美しく整っていなければならないという掟が存在するのも、その一端を表しています。しかし、その掟を疑問に思う声も無視できません。私たちが考えるべきは「このような伝統が本当に求められるスキルや資質を反映しているか」という問いです。

海辺の村では魚を綺麗に食べることが良しとされる

これを理解するために、私の故郷である海辺の村に思いを馳せてみたい。海辺の村では、魚を美しく食べることが重要なスキルとされていました。なぜなら、その地域では魚が主食であり、魚をきちんと食べることが基本的なマナーだったからです。しかし、これが内陸の都市で同じように価値を持つかというと、そうではありません。そこでは、魚を食べる機会は少なく、そのマナーが重要視されることは少ないでしょう。

就職活動の指向性が一般化されると破綻する

就職活動も同じです。ビジネスパートナーを選ぶ際や、小規模な組織で一人を採用する時など、特定の状況下では、履歴書の手書きや美しい字が価値を持つこともあるでしょう。しかし、それがすべての場合に適用されるとは限りません。

例えば、魚を美味しく食べることを一つの評価基準としたとき、海辺の村から来た人々は優位に立つかもしれません。しかし、内陸から来た人々はその基準に困惑するかもしれません。彼らは魚を美味しく食べる技術を持つかもしれませんが、それは彼らの主なスキルや能力ではないでしょう。そのような評価基準が一般化されると、本来採用すべきである人々が評価されずに見過ごされる危険性があります。

同様に、手書きの履歴書や美しい字が一つの指標とされると、そのスキルを持つ人々が優位に立つでしょう。しかし、そういったスキルが必要とされない職種や状況であっても、その評価基準が一般化されると、本来採用すべきである人々が見過ごされる可能性があります。

フェティシズムが採用基準になっていませんか?

私たちは、就職活動における評価基準が、フェティシズム的な儀式であってはならないと考えるべきです。そのようなフェティシズム的な要素が採用基準とされると、個々の能力やスキル、経験などの重要な側面が無視されてしまう可能性があります。

あくまでフェティシズムの中で「良し」という前提に成立している、「文字を綺麗に書くことができるからその人を採用する」というのは、あくまで採用者や採用するコミュニティで共有されているフェティシュであることを忘れてはなりません。そしてそれを一般化することはあまり良い結果を生まないと推測されます。あくまで小規模な採用においてそうしたフェティシュは採用される人をより高めてくれるのです。

字が綺麗な方がいい、であるとか、体育会系がいいとか、ご飯をたくさん早く食べられる人がいいといったものは、あくまでフェティシュな要素であり一般化することで価値を高めることはできません。一般化してしまうと陳腐化し良さを打ち消してしまいます。あくまで一対一のパートナーを選んだり、ごく限られた属性の小さなコミュニティでの採用の際は効果を発揮するかもしれませんが、それはそのフェティシュが関係性を強化しているものとして機能しているからなのです。中規模以上の採用をする際はその点に気をつけながら採用の基準やルールを見直し、自己のフェティシュの押し付けがないか確認するべきでしょう。

不幸なことにそれが中規模や大規模な採用において一般化された際、そのフェティシュは陳腐化し、本来の価値を持たないばかりか、本来なら採用すべきである人を除外することになってしまいます。これは絶対に避けなければならないことだと私は思う。

中規模以上の就職採用をする際は要注意!

従って、中規模以上の採用を行う際には、採用基準やルールを再評価し、フェティシュの押し付けがないか確認することが必要です。それが、多様な人々がその能力を最大限に発揮できる職場を創出する一歩となるでしょう。何より、それは一人一人の価値を尊重し、その能力を正当に評価するために重要です。

人の価値は一筆の字によって決まるものではありません。それはその人が何を成し遂げることができるか、どんな能力を持っているか、どんな視点を持っているか、そしてどのようにチームに貢献できるかによって決まるものです。それを評価するための基準は、フェティシズムから解放され、実質的なスキルと資質に焦点を当てるべきです。