久しぶりに集中して「もののけ姫」を観たらいろいろと考えた

アシタカのイメージが変わった

コロナショックの影響で映画館でスタジオジブリ作品が上演されることになった。そこで「もののけ姫」を観ることにした。

「もののけ姫」は小学校の頃に観た記憶がある。その後もビデオやDVDで何度も観てきた作品であるが、ここ最近はBGMのように何かをしながら観ることはあっても作品のみに集中して観るということはしていなかった。

そのため、おそらく集中して観るのは10年以上ぶりであったかもしれない。主人公のアシタカは17歳ではじめて観たときには年上の青年だったが、今は自分よりもかなり若い子どもになってしまった。昔の17歳なので、今の人で考えればもう少し上な印象がある。それでもアシタカは社会に出る前の大学生、就活をしているような3回生、4回生の年頃というイメージである。

子どもの頃、観たときのアシタカのイメージは強くたくましい、カッコいいキャラクター。才能があり、違いのわかる青年というイメージだった。

自分が30代半ばの年齢でアシタカを観た場合、アシタカはまだ外の社会をたいして知らない無知と研ぎ澄まされた正義感に満ちた好青年になろうとしている、まだまだ“コドモ”であるように見える。しかしながら謙虚であり、他人の言葉に耳を傾けた上で、自らの曇りなき眼で見定めようともがき苦しむ少年だと感じる。

子どもの頃に自分が観て感じたアシタカの印象が自分が歳を取ることでガラリと変わってしまったのだ。

子どもの頃の印象は、完成された青年像であったが、いま、こうしてみるとアシタカは、まだまだ成長の余地を残した少年であると感じてしまうのだ。

アシタカは世間知らずの真面目な少年なのか

ではななぜ、そのように、アシタカをまだ世間のことを知らない真面目な少年であると感じるのか。そのことについて書いていきたい。だが、その前にアシタカは本当に真面目な人なのかについて考えていきたい。ここからはかなりネタバレをするが、多くの人が「もののけ姫」は観たことがある人ではないかとと思うので遠慮なく書いていく。

アシタカは酷い奴かもしれないという言説と穢れた者の宿命

アシタカは真面目なのか。この問に対しての反論としてよく挙げられるもので、「アシタカはカヤからもらった玉の小刀をサンに渡している、カヤからもらったものをサンに渡すというのはいかがなものか。実はかなり酷い奴なのではないか」という意見がある。まずはこのことについて考えていきたい。

アシタカの優位性、よくできた人であるというキャラクターはエミシの里でのエピソードで形成されているというと思う。里の中では将来は長になることを期待された青年で、しかも、カヤという許嫁もいる。ある意味将来を約束された好青年であった。そして、アシタカはそうした期待に応え、里を守るのであったが、その代償として、彼は「穢れた存在」となってしまう。どんなに素晴らしい人であってもその人が「穢れ(けがれ)」であるのならば通常通りコミュニティの中で存在することはできない。「穢れ」は「気が枯れる」ということが語源の一つであると言われるように、里の繁栄を鑑みた場合「穢れ」を放置することは回避しなければならい。「穢れ」を排除、分断、切り捨てることで、コミュニティの秩序は保たれる。つまり、その人がどんなに社会的、経済的にそのコミュニティに利益をもたらす人であっても、その人が「穢れ」であれば、コミュニティから排除するしかないのである。掟に従い、見送らないというのはそうしたことから来ていると思われる。つまり、「見送る」ということはまた帰ってくることを前提とした行為であるとも言える。もしくは、また来てもいいということを想起させる。しかし、アシタカは「穢れ」である以上、もう里へ帰ってきてはいけない存在である。だから見送りはなしということになる。

玉の小刀で私との関係を切ってちょうだい

しかしながら、カヤが玉の小刀をアシタカに渡すわけである。これはなかなか興味深い。刀であるわけだから、切るものである。それをこれから排除されるものに渡すわけである。カヤは自分からアシタカを排除し関係を断つということは想いがあるのできない。だからアシタカに小刀を渡し、アシタカ側から、カヤとの関係を切ってくれという意味で渡しているとも解釈できるのではないかと思う。あまりにも関係、絆が強い場合、それを切ること、排除することは危険が伴う。これはある意味、呪いとしてカヤに不幸を招くかもしれない。それは、アシタカがカヤのことを呪っているわけではなく、カヤが自ら紡ぎ出したアシタカとの物語のかで発動する。カヤは、「自分もアシタカを排除してしまった。そんなひどいことをする自分は罰せられるべきである」と解釈し、自らが呪われる者として運命を作ってしまうということだ。

カヤは自分のアシタカに対しての思いは変わらずある。つまり、排除したくないわけである。しかしながら排除しなくてはならない。この関係は不変である。カヤにとってアシタカは穢れである以上、一緒に生活することができない存在だからだ。だからアシタカに付いて行くという選択は存在しない。こうした曖昧な状況のなかで、自分から切り離すことはできないから、どうか、この小刀で私達の関係をアシタカ側から切って欲しいという意味で送ったのが玉の小刀なのではないかと思う。そして、切り離すため象徴として存在している玉の小刀は一方でカヤ自身の象徴でもある。つまり、カヤはアシタカとの関係をアシタカ側から切ってもらうことで呪いを受ける(創り出す)可能性が低くなるし、それとともに、象徴的にカヤはアシタカと旅をすると物語を紡ぎ出すことができる。この物語はあくまでカヤが作り上げた、カヤ側の解釈の物語である。つまり、その物語をアシタカが共有するかどうかは別の話で、おそらくアシタカはそうした物語をたいして共有していない。排除される側からしてみれば、都合のよい話であると感じるかもしれない。

排除されることは絶対的なルールである。でも排除する側は自分たちが排除したわけではなく、状況がそうさせたわけである。だから恨まないでほしい。あわよくば、アシタカ側から出ていった、排除したという方向で話を勧めてほしいという都合の良い話である。

会社でよくある話に置き換えればわかりやすい。本来は会社都合で退職というところだが、自己都合で退職ということにするとなにか良いでの今回は「自己都合で退職」ということにしてくれないかと言われるケースである。そんな理不尽なことがあってたまるかと思うが、こうしたケースがよくあるのも事実である。もちろんそんなことを言い出す会社に対して愛着が湧くわけもない。

カヤの思いがこもっている玉の小刀の思いを受け入れるのはアシタカの自由である。ただ、排除された身としては、排除した側の思いをどこまで汲んであげるべきだろうか。そうした排除した側の思いは「排除」したほうがいいのではないかと私は思う。もちろん旅のお守りとして渡したということもあるかもしれないが。

その後、アシタカはサンに玉の小刀を渡すわけである。もはやアシタカにとって、玉の小刀は渡された者が対象となる人との関係を切るための道具として象徴的にあるものとして解釈したのではないか。カヤとの関係を切り、カヤの想いは共有しなかったわけである。これは意味深い。カヤにとっての玉の小型が象徴するものの解釈と、アシタカが解釈しているものの意味が異なっているということだ。アシタカにとって、玉の小刀とは、相手に想いを伝えつつ、その裁量権については相手側に委ねるという意味をもったものとして解釈しているのではないだろうか。

アシタカはサンに玉の小刀を渡すわけだが、アシタカとサンの関係について、アシタカは続けていきたいと思いつつも、昨晩のモロとの対話のなかでそれが正解なのかどうかわからずにいる。結局は、サンの幸せはサンが選択をして生き方をつくっていくほかない。だからこそ、アシタカは一方的な想いをただ伝えるということに終始したくなかった。自分のサンに対する想い、「今後も関係を続けていきたい」というものを伝える一方で、「もしサンが生きていく上でアシタカとの関係を断ったほうがいいのであれば、この玉の小刀で切ってもいいから」ということを象徴的に匂わせている。このようにと考えると玉の小刀がカヤからアシタカへ、そしてサンへ渡っていった物語が理解できるのではないかと思う。

「アシタカはカヤからもらった玉の小刀をサンに渡してしまうので酷い奴だ」と言われることがある。しかし、よく整理して考えると、排除したものから渡されたお互いの関係を切るものとして玉の小刀があるのではないかということ。その後、サンとの関係性のなかで、今後関係を続けたい一方で相手のことを考えると関係を続けるべきか悩んだ末に判断を仰ぐものをとして象徴的に渡したものが玉の小刀なのではないか。

表面で語られている言葉のみが真実を作り上げているわけではない。そこでやり取りされるモノが象徴するものが何なのかを解釈しようと試みることで表層的な物語とは別の物語を発見することができる。

このように解釈するとアシタカは真面目である意味合理的な判断を下すことができる人なのかもしれない。

アシタカは田舎から出てきた世間知らずの少年である

ではアシタカがまだ世間のことを知らない真面目な少年であると考える理由について考えていきたい。

まず、1つ目の根拠としてジコ坊とのやり取りが挙げられる。アシタカは鉄の礫をジコ坊に見せて情報収集をする。その際のジコ坊のあしらい方はまさに中堅の会社員が大学生インターンに向けて適当にあしらいながら、できるならやってみたら、というちょっと投げやりで適当な感じであると言わざる得ない。ジコ坊はその鉄の礫が何であるかだけではなく名護の神のことももちろん知っている、というか今回の一連の物語の裏の背景をほぼ知っている人物であるといえる。しかし、そのことについて一切話さない。むしろ、「アシタカはちょっと挑戦して痛い目みて現実社会を知ったほうがいいんじゃないかな」みたいな意地の悪いちょい出しの危険な情報のみを伝える。「シシ神っていうヤバい奴がいるからそこに行ってみたらなにかわかるんじゃね?」(そもそもそこに行く前にエボシとかモロ一族とかいろいろヤバい奴いるから死んじゃうかもしれないけど。でもそれはそれで、自分たち(ジコ坊側)の動きを察知されにくくする目くらましになるのでいいかも。)

もちろん、真面目なインターン生は中堅社員のこうした酷いアドバイスを真面目に聞き入れそのまま行動してしまうわけだが、アシタカ少年はただの少年ではなく、超自然的な呪いの力で難局を乗り越えていく。

業界で注目されている社会起業家としてのエボシ

乗り越えた先に待っていたのは、エボシという女性社会起業家だった。海外からの最新技術を輸入しそれを基に自社の技術者たちと独自改良した世界最高レベルの商品がウリ。女性の働き方改革をおこない、女性の会社での地位を確立するための様々な施策を実行。また難病患者の働く場も創出しマイノリティの権利も保証した企業づくりを模索。ただ、最近は得体のしれないベンチャーキャピタルが支援と引き換えとして無理な要望を突きつけることが目立っている。そのことに対してエボシは従うしか方法はない状況だが、そのことを役員連中はあまり良いことではないと思っている。「エボシ様は踊らされている」と発言している者もいる。ほかに指摘できる点として、社会的経済的困窮者でひどい扱いを受けていた人を買収し、彼らを、以前よりはマシであるが決して豊かになることはできない社会システムに組み込み、「昔よりは断然ましである」「ここならみんなで生きていける」というやりがいの搾取にも似た構造を作り出すことで人件費コストを低くし莫大な利益を上げているという批判もある。そして、組織の運営は多くを救うためならば、個が犠牲になっても構わない。という考え方のもと運営が行われている。これはまだまだ、たたら場というコミュニティが社会的な環境下で強い発言権を持っておらず、外部の団体からの圧力に屈しやすい状況であるため、妥協してしまうという点が影響している点は否めないのだが、そうした不完全性はおそらく他にもみられ、そうしたことが要因としてかどうかは定かではないか、たたら場という企業コミュニティは一旦崩壊してしまう。

あ、そういう会社なさそうで実は結構ありそうだよねと私は思う。

そんな団体の代表であるエボシは自らが放った自慢の商品のフィードバックをアシタカから得たわけでそのささやかなお礼1割、どうせアシタカは田舎者の世間知らずだし、お前にうちの最新技術をみせても理解できないだろ、という驕り9割ぐらいの思いで秘密の庭を案内したのではないかと思う。ちょっとした遊び心でエボシはアシタカに秘密の庭を見せた。結果として、その秘密を知ったところでアシタカは何も動くことはできなかったわけだが、情報収集という点においての成果はあったのではないかと思う。

馬鹿には勝てん!?

以上のように、ジコ坊とエボシにアシタカは侮られている。「所詮、田舎から出てきた若者に何ができるの?ちょっと痛い目でも味わって社会の現実でも知ったほうがいいんじゃないの?」ぐらいの勢いでアシタカは事件に巻き込まれていく。この扱われ方の関係性から「まだ世間のことを知らない真面目な少年」というイメージは形成される。ただ、アシタカの素晴らしいところは、そうした社会の荒波に対して安易に否定をするのではなく、問いを育んでいくことをした点にあると思う。結論を出すことに急ぐのではなく、真摯に事象にたいして対応する姿勢は賞賛に値すると思う。結果選択した方法はシシ神の首を返すという方法だった。別に夜明けをまって、ジコ坊を捕まえるという方法もあった。当時、首が取られた状況において、森はすでに死んでしまっているわけで、これが首を返せばもとに戻るという確信をほぼないに等しかったのではないかと思う。しかしながら、アシタカは真面目であるからこそ取られたものは返納すべきであると決断するわけである。

「穢れ」を取りまく「排除」と「融合」の構造

アシタカが里から排除されたことを思い出してほしい。アシタカは「穢れ」であるがゆえに排除された、切り捨てられた。「穢れ」であるからもとに戻ることはできない。一方でシシ神の首は同様に切り離されたものである。しかし「穢れ」であるから切り離されたものではない。むしろくっついていることで「聖」であったものは切り離され不完全になり、「穢れ」を生み出した状況になっている。まさに構造的にみると、アシタカとシシ神は逆の状況である。

構造的にアシタカは「穢れ」なので切り離される。

シシ神は切り離されたので「穢れ」になる。

アシタカが戻ることはコミュニティに「穢れ」をもたらすので戻ることはできない。

一方で、シシ神の首は本体から離された状況が「穢れ」であるので本体に首を戻すことで日常を回復することができる。

シシ神の首が返されなければならないのは構造をみれば明らかで、始まりの物語では「穢れ」の「排除」であるから、終わりの物語はその逆で「融合」で「穢れ」を払うということになる。シシ神本体と、首が融合して「穢れを払う」ことになった。

だからあらゆるものが突風で吹き払われ、病も払われたわけである。神話的構造がみてとれはしないだろうか。

「穢れ」を捉え直していくこと

こうしてみると「もののけ姫」という作品は「穢れ」をテーマにあつかったものであるとみることができる。「穢れ」は排除するものであるが、それでいいのだろうかという単純な問いかけがされている。文化的、社会的、経済的な要因を背景にしてヒトは排除されることがある。そこには何らかの「穢れ」がある場合がある。「穢れているから」ヒトは排除する。

しかし、穢れている状況が一つのまとまりとされているものが切り離されているから起こった場合はどうだろうか。つまり、排除されているからこそ、「穢れ」が起きているという捉え方である。以前排除され穢れたものが融合することで穢れを払う、マイナスとマイナスが掛けられてプラスになる、もしくはマイナスとプラスが合わさりゼロになることで「穢れ」がなくなるという考えを提示したのが「もののけ姫」なのかもしれない。

例えば、「穢れている」と解釈され排除された当事者は「穢れている」から排除された。この事実は変わらない。しかし、その排除された人と同じ線上に立っている他の人は、穢れているから排除された人と同じ属性をもっているから排除されているのであって、「穢れている」から排除されたわけではない。あくまで排除された人の文化的、社会的、経済的なポジションを継承しているに過ぎない。「穢れ」ているから排除された当事者と当事者ではない、ただ同じ属性を持った人とでは異なっているという見方も可能であるということが言いたい。

具体的な事例で示してみよう。LGBTQは「穢れている」から社会から排除されるという時代では、もちろんLGBTQ当事者は「穢れ」と解釈されたから排除された。※LGBTQが本質的に穢れているのではなく、あくまで社会に「穢れ」として解釈されたという事実に注目。

社会がLGBTQは穢れているから彼らを排除した。これにより社会は正常に安定したのであればそれで問題解決となったわけだが、そうはいかなかった。

価値は変容し、解釈の仕方は不変ではないので、『異性を愛する男と女しかいない社会はおかしい「穢れている」』という解釈が生まれ始めた。二項対立で白黒つけることには限界があるというわけだ。この場合は、現状の社会が問題がある、「穢れている」と解釈される。つまり、ジェンダーを固定的に考える状況は穢れた状況である。そこに、以前「穢れている」と解釈した要素(LGBTQを)を加えることで穢れ払ってしまおうという動きが現在の多様な性を認めることで社会をより豊かにする動きなのではないかと読み取ることもできるのではないか。

マイノリティや弱者を排除する構造を理解する教材としての「もののけ姫」

マイノリティや弱者を排除するということは昔からよくあったことである。しかし、いま重要なのはそうした排除された者を加えた形でいかに社会を構築するかするかということである。そのためにはまずは排除された理由、「穢れ」の根拠を捉えることから始めることが必要である。その上で再構築する方法を模索することが必要なのかもしれない。そういう意味で「もののけ姫」はマイノリティや弱者を考えるうえでの良い教材としても活用できるかもしれない。

参照文献

エドマンド・リーチ(1981)『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』青木保,宮坂敬三 訳,紀伊國屋書店.

クロード・レヴィ=ストロース(1976)『野生の思考』大橋 保夫 訳,みすず書房.

クロード・レヴィ=ストロース(2006)『生のものと火を通したもの (神話論理 1)』早水洋太郎 訳,みすず書房.

メアリー ダグラス(2009)『汚穢と禁忌』塚本利明 訳,ちくま書房.

GORILAX
コラムニスト ふと湧きだす好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。社会学、文化人類学の視点からもアプローチしていきます。