「スタバはオシャレ」というブランドイメージは終ったのか。2020年のプラダを着た悪魔さんは何を飲む?

久しぶりにスターバックスコーヒーの店内で友人と期間限定のジンジャーブレッドラテを飲んだ。冬の期間限定の定番にもなっており、これを飲むと冬が来たなと感じる。

私は、スターバックスの店内でコーヒーを飲みながら観察するのが好きだ。働いているスタッフ従業員(スターバックスでは彼らのことを「パートナー」と呼ぶそうだ)のとめどない動きを眺めたり、どのような人が店舗に来ているのかをみるのが好きだ。「彼らとその場を共有している」ということに心地よさを感じていたのかもしれない。また、食器などがカチャカチャとなる音、スチームのシューッツという空気音が心地よいと感じでいた。だからスターバックスでコーヒーを飲みながら時をもて余しつつ、読書をしたりすることがたまらなく好きだった。

そういった「ワクワク」と「リラックス」の間にある、なんとも言えない魅力がスターバックスにはあった。それは「スターバックスで時間をつぶす」ということ、つまり、この空間にいるということは一種の「おしゃれ」や「洗練」といったイメージがさり気なく付与されていることが大前提としてあった。

なぜ、そうしたイメージが存在していたかということに対しては7,8年前に下記の2冊を読んで理解を深めていた。

ジョセフ・ミケーリ(2007)『スターバックス5つの成功法則と「グリーンエプロンブック」の精神』月沢李歌子訳,ブックマン社.

ハワード・シュルツ(2011)『スターバックス再生物語つながりを育む経営』月沢李歌子訳,徳間書店.

これらの書籍を参照しながら簡単に説明すると、第一に「スターバックスはコーヒーを売っているのではない」ということ、スターバックスは「体験」を売っている。「顧客体験(カスタマー・エクスピリエンス)」に注目して顧客満足度を高めることを目的としていた。だから他のコーヒーを売っている店舗とは違うイメージとブランド力を持っているというものだ。

これは本に書いてあったことだが、ひと昔前、スターバックスのあの紙コップを持って歩いているというだけで、とてつもなくオシャレで洗練された人にみえた。それこそがスターバックスが持つ魔力であり、イメージである。スターバックスのブランドイメージはオシャレで洗練されたもので、悪く言えば、誰もが気軽に行くことさえも阻まれるようなところだった。小さな子連れ家族はご遠慮いただきたいという空気さえ漂う、大人がくつろぐ、楽しむ空間としてブランドイメージが確立されていたのではないかと思う。

そうしたブランドイメージがあったから、スターバックスにいる人は

文化資本社会資本が高く、経済資本も中流以上の人がよく集う様な場所のイメージがあった。それはいわゆる「意識高い系」の人も含まれていたかもしれない。

そうした人にめぐり逢いやすいのではないかという、期待やイメージがあるというのがスターバックスの良さであると私は思っていた。また背伸びして、こうした「大人」に出会いたいという若者からの支持も高かった。

先程、私がスターバックスに感じている「『ワクワク』と『リラックス』の間にあるなんとも言えない魅力」は前述したことを背景として形成されていったのではないかと思う。

それが、今回、スターバックスでコーヒーを飲んでいて、感じなくなってしまったのである。「あれれれれ、おかしいなぁ。コーヒーはすごく美味しい。前よりも美味しくなっていると思う。コーヒーもミルクも素晴らしいマッチングだしジンジャーブレッドはジンジャーとクッキーのフレーバーをしっかり感じることができて驚いたぐらい。昨年までのジンジャーブレッドラテはジンジャーのフレーバーは感じられるが、これがジンジャーブレッドというクッキーに起因しているものであることは名前からでしか推し量ることができないものだったと思う。飲み物のレベルはものすごく向上して美味しくなっているのに、気持ちがぜんぜん高まらない。感じないのである。あの、「スタバにいる。」というときに噛みしめる高揚感と上質な時の流れを。

いままで当たり前の様に感じていたのに、突如、感じなくなってしまった。

それは心の問題なのか、身体の問題なのか、それともコロナ渦によって塗り替えられた「新しい生活様式」なるものなのかはよくわからない。

ただ、スタバに他とは違う、突き抜けた「オシャレ」さを感じることができなくなってしまった。

あぁ、どうしてこの人達は赤いTシャツを着て小走りでエクササイズをしているかのように小刻みに動き続け、多種多様な飲み物を作り続けているのだろう。しかも決して高くはない時給労働で。ブレンダーはブブーンッガッツガッツガーッツ!!!と耳障りな低音を含んだ雑音で周りの空気を汚し続けている。AIとロボットによって今では素早くできてしまいそうな作業フローを7人程度のスタッフが広くはない場所で無限ループで作っては渡すということ繰り返ししている。「フラペ無限地獄」は閉店時間に近づいてもとまらない。その店にはドライブスルーがあるため、購入者はひっきりなしに来て長蛇の列を作っている。

そんな中、できた商品を渡すスタッフが手を滑らせて渡す直前でラテを自分に向けてぶちまけてしまった。疲労も限界に来ていたのだろう。見ていて辛かった。これからまた最初から作り直して提供しなければならない。ほかのメンバーが交代して提供してくれることになり、彼女は一端バックサイドでエプロンを新しいものに交換しにいった。

スタッフたちは疲れをにじませながらも笑顔の接客を惜しまない。だが購入者も笑顔で対応するのかといえばそうでもない。

なんだかな。辛いな。ワクワクを感じないなと。

興味深いのは子連れの家族がいたことだった。

そして子どもはフラペチーノを手に取ると大喜びで飲んでいた。子どもはシュガーハイになりやすいと言われている。フラペチーノはまさにシュガーハイになるためのようなドリンクなのだろう。

実はスターバックスで子連れの家族が飲んでいる場所には近づきたくない。

なぜなら、たいてい、親は騒ごうとしたり、上手に飲めなかったりする子を叱りつけて騒がしくするからだ。親が子を叱る声を聞きにスターバックスへ来ているわけではないのでとても迷惑している。子どもの声が嫌いなわけではなく親の怒鳴り声や不細工な行動をみるのが不愉快でしかたがないからだ。

もちろん、こういう子連れの親子でも気軽にいけちゃう店にスターバックスはなったのだなと。売上が向上するのであればそれもありなのかもしれない。ただ、以前の「オシャレ」なブランドイメージは荒廃しマクドナルドやサンマルクカフェのような店舗と変わらないイメージに近づいているのではないかと思う。


スターバックスが出てくる思い入れが深い映画に『プラダを着た悪魔』(2006年公開)(英語名はThe Devil Wears Prada)というものがある。映画の冒頭にはそれぞれの朝の情景が出てくるがそこにスターバックスの情景も出てくる。そして、スーパーブランドに身を包んだ出演者たちはみな、片手にスタバをもって歩いているし、何かと「スターバックスを買ってこい」というシーンが挿入されている。この映画においてスターバックスというものはただの飲み物ではなく、「オシャレ」を補完するアイテムとして活用されている点を見出すことができる。この映画のエピソードで興味深いものとして、青色のお話がある。主人公のアンディはその日、セルリアンブルーのセーターを着ていた。そして、職場ではターコイズブルーのベルトの選定を行っていた。アンディはその様子を見て笑い、上司を怒らせるのだが、その際の上司の言葉が興味深い。

あなたは家のクローゼットからそのサエない“ブルーのセーター”を選んだ“私は着る物なんか気にしない” “マジメな人間”ということねでも、この色はブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない。セルリアンよ。

知らないでしょうけど2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のソワレをサンローランがミリタリージャケットを発表。セルリアンは8つのコレクションに登場。たちまちブームになり全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売されあなたがセールで購入した。

その“ブルー”は無数の労働の象徴よ。でもとても皮肉ね。ファッションと無関係と思ったセーターはそもそもここにいる私たちが選んだのよ。“こんなの”の中からね。

『プラダを着た悪魔』(2006年公開)(英語名はThe Devil Wears Prada)


 つまり、「オシャレ」というのは一般的な市民のなかから自然発生的に存在するかのように見えるが、実際は「オシャレ産業」を作り上げているごく少数の人が「オシャレ」というものの起点を作り、そこに方向性を与え、それが放出し、拡大されていく中で多くの人へ波及していく仕組みを彼女は言っている。そしてその「オシャレ」はブームを過ぎれば「ダサい」ものへ変化していく。例に挙げているセルリアンブルーは「オシャレ」であるという刺激的なイメージは月日が経つにつれて形骸化して荒廃化し、オシャレな色ではなくってしまう。

映画公開当時の2006年では、セルリアンブルーはオシャレな色ではなかった。一方でターコイズブルーはオシャレな色だった。

しかし、ながら、おもしろいことだが、2020年ではセルリアンブルーの方がオシャレで、ターコイズブルーの方は冴えない色になった。ブームの波が切り替わっていき、再び、セルリアンブルーのブームの波がやってきたのかもしれない。

一度オシャレであるというイメージがついてもその後何もなければ衰退していくようなものだ。だから、以前から「オシャレ」であるということを売りにしていたとしてもそれが大多数の大衆によって消費され日常の中に溶け込んでいけばいくほど、突き抜けた「オシャレ」であるというイメージは取り除かれてしまう。そうなるとオシャレ産業を作っている人たちからも距離をおかれるのではないかと思う。

非日常のオシャレ体験は多くの大衆の中で消費されて姿を消してしまうかのように。

スターバックスの話に戻ろうと思う。スターバックスも同様で以前は「オシャレ」であるというイメージを無意識的にも感じることができた。しかし、最近のスターバックスはなんだか「もっさり」していると感じるのだ。なんというか「とりあえず感」をすごく感じる。とりあえず期間限定のフラペチーノを出しておけばよい。とりあえず有名どころ、「オシャレ」だと認識されているだろう人とコラボしてグッズを出せばよい。といった感じに。ブランドイメージが、文化資本や経済資本が乏しい人でも簡単に、しかも安価に、(つまり、マイルドヤンキー的な人がもっているであろう安いラインのルイヴィトンの財布を買うよりも安く)手に入れることができる「オシャレっぽさを繕う」アイテムになっている。「オシャレっぽさを繕う」とは、「とりあえず、これにしておけばいいだろ。」という無難で無気力な選択が土台にある。共通の文化資本、経済資本の人からしてみれば、「まあ、ダサくはないかな。普通よりはちょっとおしゃれ」にみえるだろう。しかし先ほど「プラダを着た悪魔」を取り上げた際に出てくる「オシャレ産業を作る人」からするとかなりダサく見える。

たちまちブームになり全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売されあなたがセールで購入した。

『プラダを着た悪魔』(2006年公開)(英語名はThe Devil Wears Prada)

「イオンで買い物してスタバで休憩した。」、「帰りにドライブスルーでスタバを買った。」そうした消費は上記の引用とよく似た構造なのではないか。とすると、スターバックスは輝かしいビーコン(象徴)のように多くの人を魅了したブランドイメージを持っていたのだが、出店数が増え、地方の田舎にも店舗ができるようになって、「オシャレ」であるとうイメージが形骸化して「無難なフラペチーノを飲むカフェ」になってしまったのかもしれない。「フラペチーノ」という名前はスターバックスの商品でしかつけてはいけないと聞いたことがあるが、2020年の私が感じる感覚としては「フラペチーノ」が意味するものとして、多少の嘲笑、買うのが憚れるちょっと恥ずかしいものになってしまったのは否定できない。もちろん、カロリーがものすごく高く、それに恐れをなしているという面が大部分を占めるのだが。

個人的な感覚で「オシャレ」ではなくなってしまったと感じると同時に。最近は「スタバに行きました」ということをSNSにアップしている人もあまり見なくなったと思っている。以前は、よく最新のフラペチーノのについてよくアップしている人がいたが、最近はそこまで多くはない印象である。これはコロナ渦の影響もあるのかもしれない。

スターバックスは一種の「おしゃれ」や「洗練」といったイメージを失ったかもしれない。また、そうしたイメージを持っていたよなという懐かしく感じる感情に浸ったりする。だが2020年のいまは「オシャレ」ではないかもしれないが、また数年経てば再び「オシャレ」のアイコンとして復活するのかもしれない。ブームというものは波のようにうねり、上がったり、下がったりするものであるのだから。

GORILAX
コラムニスト ふと湧きだす好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。社会学、文化人類学の視点からもアプローチしていきます。