性別、ジェンダー、LGBTQ+の捉え方について思うこと:「消極的性別」と「積極的性別」

平和学の視点からのアプローチ「消極的平和」と「積極的平和」

平和というのは、澄み切った星空のように遥かな存在で、その真実は一つではない。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは、私たちが目指すべき平和について「消極的平和」と「積極的平和」の二つの顔を語った。「消極的平和」とは、それは澄み切った夜空に輝く星々のようにはっきりと見える平和、「暴力がない」、「戦争がない」、その穏やかな存在だ。

だが、平和とはただ戦争がないだけでない、それはより深い意味を持つ。ヨハン・ガルトゥングは、そのより深い平和を「積極的平和」と名付けた。それは「すべての人が生きやすい世界」、「不平等や差別がない世界」、「社会的な公正さが溢れる世界」を描く。それは澄み切った星空に隠された無数の星々のように、目には見えないかもしれないが、確かにそこに存在する平和だ。

性別にこの視点を援用する「消極的性別」と「積極的性別」

こういった平和の二面性は、他の領域、例えば性別においてみていくべきだと思う。それを「消極的性別」と「積極的性別」と名付けて考えていきたい。消極的性別、それは遺伝的、生物学的な性別を示す、男性と女性の二項対立的な区分だ。それは生まれた時に医師が「男の子だ」「女の子だ」と告げる、XX染色体とXY染色体という明確な違いだ。その違いは、医学的な文脈、例えば乳がんや前立腺がんなど、性別によって感受性が異なる疾患の治療に直結する。「消極的性別」、それは平和の消極的側面のように、私たちが比較的に日常的に認識しやすい性別だ。

しかし、性別というのは遺伝子だけで決まるものではない。それは心の中にも宿る。「積極的性別」とは、個々の感情や経験、自己認識に基づく性別だ。トランスジェンダーの女性は生物学的には男性かもしれないが、彼女は自己認識としては女性と感じる。彼女は、医者が出生時に宣言した性別(消極的性別)よりも、自分が自分自身として認識している性別(積極的性別)を重視する。

すべてをLGBTQ+の視点でみようとするのは短絡的で思慮が浅い

このように、「積極的性別」と「消極的性別」は、一方が他方を否定するものではなく、同時に存在し得る。それぞれが特定の文脈で有効であり、時と場合によって使い分けることが重要だ。「すべてをLGBTQ+の視点から見る」のは、平和がただ戦争の不在だと考えるのと同じくらい短絡的だ。「消極的性別」と「積極的性別」、それぞれが共存し、それぞれの視点が尊重される社会、それこそが真の平等な社会であり、「積極的な平和」を生み出す社会だ。安易に、すべてをLGBTQ+の視点で見ようとする、もしくはその視点を人に押し付けようとするのは短絡的で、思慮が浅く恥ずかしいことであると私は思う。「消極的性別」と「積極的性別」の見極めとバランスが大切になる。

議論の幅と柔軟性を獲得する必要がある。

「この件については『積極的性別』ではなく、『消極的性別』で処理することである。」とか、「通常このことについては『消極的性別』で処理されているが、この条件下においては『積極的性別』で対応することが必要ではないか。」といった議論が求められていると思う。なぜ、社会が「多様性を受容していくべき」という流れのなかで、最近議論されているものは「LGBTQ+」と「反LGBTQ+」の二項対立的な議論に終始してしまうのか。これはそもそも、LGBTQ+のいわゆる「活動家」といわれる多くの人の語り方と思慮の浅さが露呈してしまっていることが原因の一つとしてあると思う。かれらにはもっと広い視野で社会をみてほしいと思う「ジェンダー学」というまだ生まれて間もない学問だけではなく、他の領域の学問や思想をもっと取り入れて考えるべきなのではないかと思う。

星に願を、あなたに愛を

このような理解が一人一人の中に芽生えていくとき、真の平等と積極的な平和が現実のものになることを願う。それは澄み切った星空に隠された無数の星々を探すような冒険かもしれない。しかし、その星々を見つけたとき、新しい光が社会を照らし、新しい可能性が広がっていくことだろう。そして、その先に待つのは、全ての人が生きやすい世界、真の平和だ。そのための一歩一歩が、私たちの旅路だ。