時として、SNSで、特にtwiterでくだらない批判をしているなと感じるときがある。
そうした批判を目にすると、いらだちよりも、なぜそのような馬鹿げた感性?で偏った主張をするのだろうと思う。
よくよく考えると、ある種の冗談なのではないかと思ってしまうほど稚拙にも見える。
本当は何らかの他の意図があって発言しているのかもしれないと思うこともあるが、基本的にそうした発言をする人の他の発言やプロフィールから何らかの知性や教養を感じるわけではないので私の考えは杞憂に終わる。
こうした彼らの私をもやもやさせる批判は一体何なのかということをここ数日考えていた。
そしてわかったことがある。それは彼らの発言には基本的に「文脈を読み取る能力」と「想像力」が著しく欠如しているのではないかということが挙げられるのではないかということだ。
「文脈を読み取る能力」が無いということは、簡単に言うならば、表面的なことのみを読み込み、それを理解したとしているような状況である。グレゴリー・ベイトソン(1990)『精神の生態学』佐藤良明訳 新思索社の「狼のあま噛み」を例を参照して説明することができる。
二匹の狼が一見すると喧嘩しているようにみえる。しかしながら、それはじゃれ合っているのかもしれない。両者が相手を噛んでいたとしてもそれがあま噛みであって、ただじゃれ合っているかもしれない。二匹の狼があま噛みをしてじゃれ合っているだけだったにも関わらず、断片的で表層的な面のみをみて狼の二匹が喧嘩していると勝手に解釈し、引き離そうとする人が今回問題に挙げている性質の人であり、「文脈を読み取る能力」が著しく欠如している人である。
一見すると、そうした人の主張は正しいように思える。それは断片的な事実を表象しているからだ。
簡単に言うと決して全く事実ではないことを言っているわけではないからだ。
しかしながら、彼らの主張は、あくまで、ある行為や状況の断片的、表層的な側面をただ切り取って表象しているに過ぎなく、そこには過分に彼らの恣意的な方向付けが行われている。
つまり、都合よく改変されたり加工されたフィクションを作り出している。
もちろんそうした、まがい物を議論されていることは舞台にも登らないようなことである。それにも関わらず、彼らはその異物を強引に議論の場にねじ込もうとしていく。この行為がオフラインの状況下ではなかなか困難であるケースが多いが、オンラインのtwitter上では容易にできてしまう。これがくだらない議論や、多くの人を浪費させることになっている。
「文脈を読み取る能力」が欠如している人は、その欠如した部分を自己の恣意的な思いで補完して物語を精製する。これはもちろんフィクションであり、そうしたフィクションは実証的な根拠が乏しい。そのため、極端な言い方をすれば、そのフィクションを根拠に議論することはナンセンスであると私は思う。そして、このフィクションを根拠に主張する人は「想像力」が欠如した「もし、」から続くくだらない事例を展開する。
ここで問題なのは、先に述べたものとも関係するが、欠如している「想像力」を補うために、自己の恣意的な思いを投影して「もし、○○ならば」という具体事例を作り出していることだ。そのため彼らの主張は一貫しており、まとまりがあり、わかりやすい。それは彼らの恣意的な思いをある意味、核にして構成されたものであるわけだから当然である。このまとまりがあり、わかりやすいということが実は少ない文字で表現しなければならないtwitterと残念ながら相性がよい。そのため、彼らのくだらない具体例は多くの人の共感を呼ぶことになる。もちろんそうした主張に対して共感する人の多くは、彼ら同様に「文脈を読み取る能力」と「想像力」が欠如している可能性が高い。
「文脈を読み取る能力」と「想像力」が著しく欠如している人は同様の「文脈を読み取る能力」と「想像力」が著しく欠如している人にフォローされ、自らの発言を補強するといったことがtwitter上でなされる場合がある。そしてそれがコアとなって炎上が起こる場合がある。本来、オフライン上の議論では採用されない、そもそも破綻している主張がオンライン上では議論に上ってしまう。しかもそれが炎上まで起こすことがある。なぜ、そのようなことが起こってしまうのか。おそらく、まだ、我々がオンライン上で議論方法に慣れていないということがあるのかもしれない。
そもそも、その主張は議論や批判としては受け入れられないということを伝える方法が確立されていないということもあるのかもしれない。
そのため、そうした的外れなものに対しては「無視」をするということがベターであるという認識が高いのかもしれないと思う。
最後に危惧することだが、「文脈を読み取る能力」と「想像力」が著しく欠如している人は欠如した部分を自己の恣意的な思いで補完している。その思いは嫉妬や相手を蹴落としてやろうとする思い、ルサンチマン*によって形成されていることが多いということだ。彼らは「正当なこと」や、「正義」、「正しいこと」を主張しようとしているだけという立場をとろうとするが、彼らの背景にあるのは恐ろしいほどの欲望と嫉妬である。
SNSに蔓延るマウンティングというヒエラルキーの再形成とポジションの確認作業で上位組織に所属していないことがわかった人は復讐や略奪のような行動で憂さ晴らしをする。議論方法の模索も必要だが、こうした感情的な側面でマウンティングに破れた人、下層階へ貶された人のケアについて考えていくことも必要なのかもしれない。
*ルサンチマン:恨み(の念)。ニーチェの用語では、強者に対し仕返しを欲して鬱結(うっけつ)した、弱者の心。