【ネタバレあり】絶望のシニフィエを書換えて、神話になれ「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観に行った

そもそも、最初の予告を観るところから仕組まれていたのかもしれない。映画館で「シン・ウルトラマン」の予告を観た時、ちらっと見えたパンジーのイラストが印象的な本で刷り込まれていたのかもしれない。「シン・ウルトラマン」の予告にはレヴィ=ストロース『野生の思考』が映っていた。これは世界的にも有名な文化人類学者が書いた現代思想の名著であり、知っている人は知ってるし、知らない人はまったく知らない文献である。そういった、ちょっとニッチだが有名な本が出てきたことに私は驚いたし、わくわくした。どう関係があるのだろうか?と。

予告が終わり、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」がはじまった。どのような結末になるのかとても楽しみにしていたが、自分の想像したものを超える展開に驚いた。アニメ作品として、「これが現代の世界最高峰のアニメーションだ!」というような様々な見せ方やパロディが入っていて目を見張った。

物語はどのように終話を迎えたか

今回、言及したいのはそうしたことではなく、物語の終わらせ方がとても興味深かったということだ。エヴァンゲリオンという物語はあくまで簡単にいうと使徒を殲滅するために戦うということから話がスタートしている。正式名称は「汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」、通称、エヴァに14歳の少年少女が搭乗し、戦闘を繰り広げるというお話だ。エヴァは「決戦兵器」とあるように、戦うことを目的に作られたことになっている(しかしながら、人類補完計画を実行するためという見方もできるし、碇ユイとゲンドウの好奇心からスタートしたのかもしれない。なかなか難しいところだ)。戦うことがテーマしてある物語の場合、敵を倒せば、物語は終わるが、敵を倒したら、次なる敵が現れて次回へと続く…となり、ほぼ無限に物語は続いていく。エヴァンゲリオンも使徒を倒し、ネルフを倒し、敵対する勢力を倒していくなかで、最終的に見えた先はマイナス宇宙で無限に決着のつかない戦いだった。そして、このマイナス宇宙での無限に繰り返される戦いを碇ゲンドウは「儀式」と呼ぶ。

レヴィ=ストロース『野生の思考』を参照すると、みえてくること

「永遠に決着のつかない繰り返される戦いを儀式と呼ぶのかぁ」と思ったとたんに頭の中に流れ込んだのはレヴィ=ストロース『野生の思考』に書かれていることだった。

ゲームはすべて規則の集合で規定され、それらの規則は事実上無限な数の勝負を可能にする。ところが儀礼は、同じようにプレイされるものではあるが、それは特別の試合で、勝負結果が両軍のあいだにある種の均衡をもたらす唯一の形であるがゆえに、あらゆる勝負の可能性の中からとくに選び出されたものである。この転換は、ニューギニアのガフク・ガマ族の例で容易に検証できる。彼らはフットボールを覚えたが、両軍の勝ち負けが正確に等しくなるまで、何日でも続けて試合をやる。これはゲームを儀礼として扱っているのである。

クロード・レヴィ=ストロース(1976)『野生の思考』大橋保夫訳,みすず書房. P.38

ゲームとあるが、これを「戦い」と考えるとわかりやすくなるのではないかと思う。戦いは、「すべて規則の集合で規定され、それらの規則は事実上無限な数の勝負を可能にする。」(レヴィ=ストロース, 1976, p.38)先程から言及しているように、敵を倒しても、新たな敵が出てきて、事実上無限な勝負が繰り広げられる。エヴァは戦い続けてきたのである。そしてそれは戦いである以上は終わることなく、永久に続いていく。しかし、それではエヴァンゲリオンの話を終結させることができない。

しかし、レヴィ=ストロースは「儀礼は、同じようにプレイされるものではあるが、それは特別の試合で、勝負結果が両軍のあいだにある種の均衡をもたらす唯一の形であるがゆえに、あらゆる勝負の可能性の中からとくに選び出されたものである」(レヴィ=ストロース, 1976, p.38)という。戦いが「儀礼」となることで、勝敗の結果が同等、引き分けになって、双方が等しい状況の形を形成する。もちろん、「儀礼」ではない戦いにおいてもそうしたことが発生する可能性はあるが。「儀礼」は決着のつかない戦い、均衡をもたらす状況を作り出す戦いであるということを指摘している。このことをわかりやすく伝える事例として、ニューギニアのガフク・ガマ族の例を出している。そもそも、フットボールはゲームなので事実上無限な数の勝負を可能にする。しかし彼らは、このフットボールという戦いをゲームではなく、「儀礼」という位置づけで行う。この儀礼は両軍の勝ち負けが等しくなるまで続けるフットボールである。

シニフィエ(意味されるもの、行為や物体、モノなどに付与されている意味自体のこと)とシニフィアン(意味するもの、ここでの例でいうと、フットボールという玉を足で蹴っってゴールに入れる行為)というものがある。上の話の場合、シニフィエが「戦い」から「儀礼」に変化しているということになる。実は「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でも同じことが起きているのではないかと私は思っている。エヴァでシンジとゲンドウが戦うシーンが後半部にある。これはただ、エディプスコンプレックスとしてみることもできるが、私はそれよりも、「戦い(永遠に続く戦闘ゲーム)」が「儀礼」に変わることで、均衡をもたらす戦い、勝ち負けのない、鏡で映し出したような戦いになったのではないかと思う。

エヴァの戦いのカルマが構造的に終話を迎えるしくみ

つまり、シンジとゲンドウの「儀礼」(ゲンドウは「儀式」と呼んでいる)としてのエヴァの戦闘はこれまでエヴァが背負ってきた意味を違うものへと書き換えることに成功している。「決戦兵器を使用した勝ち負けを繰り返す戦いの連続」という意味から、「均衡やバランスをもたらすもの」としての意味に。エヴァの戦闘そのものが均衡であり決着のつかないものというものになってしまった以上、何かを倒すことで物語が一旦、終結を迎えるが、その後、新たな敵が出現し、新たな戦いが始まる。といったことが存在しないセカイになった。つまり、誰もが想像に容易い物語の結末を迎える必要がなくなった。
そうなると、エヴァというものの存在があろうが、はたまた消えてなくなってしまったとしても敗者や敵を生み出すことはない。もちろん勝者もいない。こうしてエヴァに関連した戦いのカルマは構造的には終話を迎えることができる。

話の構造としては見事であると思った。レヴィ=ストロースの文化人類学的視点を援用し、「戦い」を「儀礼」にすることで勝ち負けの単純な終わりなき話を、象徴的な神話へ導きだしていく意味交換の妙技は素晴らしいと思ったからだ。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」がくれた「おまじない」

わたしたちは何かと少なからず戦っている。戦いからは「逃げちゃだめだ」と思い、立ち向かう場合もあれば、逃げる場合もある。どちらにせよ、辛かったりしんどかったりする。しかし、わたしたちが「戦い」と思っていること、その行為は「戦い」なのだろうか?自分で勝手に「戦いである」と解釈しているだけかもしれないし、周りの人や、社会などが「戦いである」という共通の解釈を付与しているだけかもしれない。しかしながら、それはあまりにも「あいまい」なもので簡単にゆらぐものかもしれない。「意味されるもの」それが「戦い」であるかを見つめ直すため、再発見するために、それこそ、シンジとゲンドウが戦いをやめて対話を繰り返していったことが鍵になるかもしれない。それはネブカドネザルの鍵のような超自然的なパワーをもったものではなく、クローンのアヤナミレイが委員長に「握手」について聞いたとき「仲良くなるおまじない」と教えてもらったように、ささやかではあるが、確実に多くの人の心に響かせることができるものなのではないかと思う。

GORILAX
コラムニスト ふと湧きだす好奇心から、いろんなセカイを巡るのが好き。実際に現地に足を運んで、海外のイベントや食、文化についてのコラムを執筆したり、国内の「面白いもの」について紹介していきます。社会学、文化人類学の視点からもアプローチしていきます。