「きもちわるい」と感じる。「きたない」と感じる。こうした感情は決して悪ではない。
しかしながら、LGBTに対して「きもちわるい」や「きたない」ということを感じて、それを言葉にすると、様々な方面から批判の対象に挙げられてしまう。
当人は素直に、感じるままに言葉を発した、もしくはSNSに投稿しただけなのに、ものすごい勢いでLGBT当事者のみならずあらゆる方面から批判される。
そして、彼らはそのことについて困惑する。なぜ、自分が感じたままのことを発言してはいけないのか。
どんなに「いけないこと」と言われても、私がLGBTのことを「きもちわるい」と感じることは止めることはできないのに。
なぜ、そこまで批判されなければならないのか、と。
今回、考えていくことは、「なぜ、きもちわるいと感じるのか」という点だ。
まず、「きもちわるい」という感情はどの様にして生まれてくるのかについて文化人類学の視座からみていき、その後で、LGBTを「きもちわるい」と感じる背景を探っていくことで、「きもちわるい」という感情とつきあっていくことについて考えていきたいと思う。
文化人類学における「きたなさ」「けがれ」についての研究を見事に入門書として書き記した名著がある。それが浜本満(1994)「けがれ:「きたなさ」の正体」浜本満・浜本まり子共編 『人類学のコモンセンス:文化人類学入門』 112-125 学術図書出版社だ。実は浜本さんはホームページに論文を掲載しているので、ぜひ読んでいただきたい。
http://kalimbo.html.xdomain.jp/research/published/dirt.html
この論文で、浜本は「きたなさ」「けがれ」について身近な例を挙げながら話をすすめる。
唾液についてはどうだろう。それは消化を助けるもので全然きたなくない。食べ物といっしょにいつも飲み込んでいるものである。でも、もし自分の唾液をコップのような容器に50㏄ほども溜めて(がんばればものの2~3分で溜まるだろう)、それを改めて飲むようにいわれたとすればどうだろう。少なくとも私には出来そうにない。何故かそれは「きたならしいもの」になっている。その2~3分の間に私の唾液の成分が変わってしまった訳ではあるまい。
〈途中省略〉
例を挙げ始めると切りがない。上に挙げた程度の(かなりトーンを落とした)例だけを考えても、きたないものの「きたなさ」の正体が一筋縄ではいかないことが分かるだろう。少なくともそれは大腸菌の含有量などといった、きたないもの自体にそなわっている成分のような形では捉えられそうにない。身近な例で考えてもこの有様だ。身近でない、他の社会の例まで入れるとほとんど収拾がつかなくなる。浜本満(1994)「けがれ:「きたなさ」の正体」浜本満・浜本まり子共編 『人類学のコモンセンス:文化人類学入門』 112-125 学術図書出版社
「きたないもの」の感じ方は社会によって異なっている。私のインドの友人は日本の祭りの露天から香る肉の焼ける匂いがあまりにも臭くて気持ちが悪くなるという。彼女はヒンドゥー教徒でベジタリアンである。宗教上、動物を殺して食べてはいけないとされているため、肉を食べることはタブーとされている。つまり、食肉=けがれということになる。多くの日本人にとって、肉の焼ける匂いは食欲をそそる匂いであるが、友人にとってはクサイ臭いとして感じられるのだ。
宗教つながりで言うならば、イスラム教徒は豚を食べない。なぜならば汚れた動物であると見ているからだ。
なぜ、豚は汚れた動物なのか、このことについてメアリー・ダグラスは、秩序によって分類がなされ、それに逸脱したものはけがれとして扱われることについて言及している。豚は家畜と獣で分類した場合、どっちつかずの存在としてあるため、汚れた動物であると言っている。家畜は蹄が割れていて、反芻をする動物である。しかし、豚は蹄が割れてはいるが、反芻をしない。こうしたどっちつかずの属性をもっているものを汚れとする場合がある。
人は、分類を行うことで物事を捉えようとする。しかしながら、分類がうまくできないものもでてくる。浜本はそのことに対して「秩序にとって基本的な分類からの『落ちこぼれ』が『きたない』とされているのである。」(浜本,1994)ということを指摘する。
浜本はエドモンド・リーチを参照し、「われわれを取巻いている環境は本来一つの連続体である。われわれは成長の過程でこの世界を、それぞれが名前をつけられた多数の分離した物体からなるものとして見るよう学習していく。つまり連続体のなかにそれを切り分ける人工的な境界をつくりだしていく訳である。しかし、境界線自体は切り分けられたカテゴリーのいずれにも属さない曖昧なものとなる。こうした境界線上の存在、あるいは境界線の一方から他方へと行ったりきたりしてしまうもの、こういったものが「けがれ」として強いタブーの対象となる。」(浜本,1994)という。
様々な事象は、きれいにくっきりと分類することはできない。どうしても分類できないもの「あいまいな境界線上」に位置してしまうものが存在してしまう。
「男性」と「女性」という二項対立の分類方法に則った場合に、LGBTはあいまいな境界線上に位置している可能性が高い。たとえば「男」と「女」の定義が、「男性は身体的に男性の身体の者、女性は身体的に女性の身体の者」といった分類方法の場合では、LGBTは分類範疇から排除されてしまう。というか、うまく分類することができない。なぜならば、分類するための項目が少ないからだ。
LGBTを存在させるためには、いままで、考慮すらしていなかった分類方法が付与されることにもなる。つまり、「性的なシコウはなにか(※志向、指向、嗜好などがあるため、あえてカタカナで表記)」と「身体的な性質に関係なく、性自認はなにか」という点だ。つまり、LGBTという存在は、「単純な二項対立的な男女の性分類」の方法を破壊し、混乱させるところにポイントがあると私は注目している。
単純な二項対立的な男女の性分類
身体が男か女か(性自認がどうかや、性的指向はどうかということは分類する際には考慮されない。なぜならば、そもそも身体が男であるならば、性自認は男であり、性的指向は異性であるという考えに基づいているから。それ以外は分類外、「異常」であるという分類になる)
LGBTという存在がもたらす、性の分類カテゴリ
①身体は男性なのか、女性なのか、その他なのか(身体的な性別)
②こころは男性なのか、女性なのか、その他なのか(自身の性自認)
③性的シコウは異性のみか同性のみか、異性も同性もなのか、その他なのか
※分類する際に「その他」があることにも注目。
LGBTの存在が、いままで自分が採用していた「単純な二項対立的な男女の性分類」の分類範疇を超えて存在し、無防備な当事者の認識に衝撃を与えている。
つまり、単純に、「男と女」という分類を採用することで自分とはなにかといった内面をつくりあげてきていたが、そこ複雑なLGBTの存在定義は外側から当事者の理解の範疇を超えたかたちで襲いかかってきてしまう場合がある。そしてその衝撃が「きたない」や「きもちわるい」といった感情としてでてくる。
これは、ヘテロ(身体と性自認が同一でかつ、性的指向が異性)の場合だけではなく、LGBT側の場合でも起こりうる。
ゲイの友人に初めてセックスをした時のことをインタビューした際に、彼から出た感想は以下のようなものだった。
「初めて男性とセックスをしたとき、ものすごい、罪悪感に駆られた。自分はけがれたことをしてしまったという圧倒的な罪悪感でショックだった。」
彼は決して、LGBTへの知識が当時から無いわけではなかった。知識として、理論的にゲイということを知っていたし、自分は同性が好きなことも感じていたが、はじめてのセックスで罪悪感とけがれを感じてしまった。この背景には、知識としての性はありながらも、自分の内面を形成する性への分類は無意識的に「単純な二項対立的な男女の性分類」に根ざしていたからではないかと考えられる。
我々は、無意識であったり、意識的にものごとを分類をし、理解することで、社会を形成しているといえる。その際に採用している「分類方法」はしばしば「新しい分類方法」へ取って代わることがある。「あたらしい分類方法」へアップデートされる場合、その分類方法は好意的に受け入れられるばかりではない。むしろ、拒絶から始まったり、「きもちわるさ」から始まることが多いのではないか。
「きもちわるい」、「きたない」と無意識的に感じることは決して悪ではない。
何かに対して、「きもちわるい」という感情を抱いたとき、そこでは、自分の社会を形成する「分類方法」に変革が訪れているサインかもしれない。
「きもちわるい」と感じたら、「なぜ、それを『きもちわるい』と感じるのか」について、よく考えてみる、思いを手繰り寄せていくことがいいのかもしれない。
そうすることで、今までは「当たり前すぎて見えていなかったこと」が見えるようになるかもしれない。
それは「私にはみえていなかった私」であり、「新しい自分」をみつけるヒントになりうるかもしれない。
「きもちわるい」、「きたない」と発言している人をみかけたら、思い出してほしい。
彼らは、いま、彼らの社会を形成しているものごとを分類する「あたらしい方法」と葛藤している最中であるということを。
その葛藤を決して、「○○についてきもちわるいと発言するのはいかがなものか!」といった単純な批判で返すのは控えてみてほしい。
彼らの「きもちわるい」という感情に寄り添い、時間をかけて「あたらしい分類方法」のアップデートの手助けをしてあげたらと思う。
きっとそれは、「彼らの今まで知らなかった彼らについて」知るだけではなく、あなたの、「今まで知らなかったあなた」を知ることにもつながると思うから。